この間、六七年ぶりで、戸塚の母さんに会って、暫く話しました、五月初旬の詩の話も出たりしてね、そしたら、その頃、リベディンスキーの「一週間」を又よみ出したのですって。「わたしは泣きながらよんだんですがね」というの。ほんの小さい一句です、しかしこの表現は何と報導班員らしさにみちているでしょう、そういう表現はきまりわるく思った筈の人なのにねえ。そして、又暫くしたら、又何か読んだ話が出て又同じことがくりかえされました、「泣きながらよんだんですがね」私にはどうしても忘られないの、そして、忘れないこころもちをお話しずにいられないの、大切な大切な言葉の感覚、感じかたの吟味というも、生活のやりようで、どんなにでも変るものであるということの痛烈な教訓です。そしてこういうことも、考えます、ものは――人の心は充実していれば、感傷は生じません、愛に充実したとき、一心さに充実したとき、泣きながら、という風の感傷の形は生じず、思わず、涙あふるるという形です、これは本質にちがいます。泣きながら云々という表現は、卑俗で皮厚性であるばかりでなく、感動すべき事実と自分の生活内容の自覚との間に或る、あき間が生じた心理なのね
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