必ず人間がついている、その脈搏、その必然で充たされていなくてはならず、そういう、きびしいリアリズムの点つけから云うと、志賀直哉は、やはり偉いわ、セザンヌと同じ意味で。似た限界において。漱石が大衆性をもっているのは、或意味で、あのダラダラ文章イージーな寄席話術の流れがある故です。小説らしくない文章の人――山本有三、島木健作が、文学的でない人にもよまれるというのは、面白い点です。文化の水準の問題としてね。すこし年をとって、一方にちょいとした人生論が出来上ったりしている人物が露伴や何かの随筆をすくのも、程よい酒の味というところね。随筆とくに(日本のは)人間良心の日当ぼっこですから。ああ、わたしは、又わきめをふらず、一意専心に、このセザンヌ風プラス明日という文章をかきたいわ。のっぴきならざる小説が書きたいわ。文士ならざる芸術品がつくりたいわ。堂々と落付いていて、本質にあつい作品が書きとうございます。ブランカの精髄を濺《そそ》いでね。
今はもう夕方よ。台所から煙の匂いがして太郎は書取中です。
ところで、生活の中にはほんの一寸したことで、実に意味ふかい徴候という風なものがあるものだと思います。
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