仕事出来る丈の食物がなく、其を獲得する努力をしては勉強どころではありません。こういう風に衆議一決いたしました。わたしは当分開成山にいて、仕事の出来る室か家を見つけ、一番近い足休めの場所として暮すこと。一ヵ月に一度ぐらい、上京すればいいこと。どうせ仕事をもって来たり、本やとの打合わせがありますから。そして、林町がやけていないのだからそこへは優先的に戻れますし。
来年の春までのうちに随分あれこれと変化いたしましょう。このごろちょいちょい泉子が来てね、うれしそうに、たのしそうに、賢そうなことや手ばなしの話をいたします。何よりも心配なのは好ちゃんに御馳走するのにものがないことだそうです。わたしも其には心から同情いたします。本当にそうでしょう。好ちゃんは本当に見事に義務を守った勇士ですから泉子のこころとすれば世界の珍味もまだ足りぬ位でしょう。それだのに「ねえ察して頂きたいのよ」と申します「わたしは、これっぽっちのかんにお砂糖をためたのがあるきりよ」と二つの手で小さな丸をこしらえて見せます、「ほんのちょんびりの油があるきりだし玉子なんてどうしたら買えるでしょうね。田舎でも一ヶ二円よ」と申します。聞いている私は笑い笑い恐縮いたします。私にしろ何に一つそういう方面で顔はきかないのですもの。しかも今のようなとき泉子に「そんな心配は二の次よ」とは常識がある以上決して決して云えませんからね。好ちゃんは少くとも半年は休養して(しかも十二分の条件で)万事はそれからにしなければなりません。泉子曰く「その期間はわたしが出来る丈何でもするわ、つまり安心してのんびりしていられるようにね」泉子の計画は健気ですが、好ちゃんは御存知の通の人柄ですから、果して悠々休養するでしょうか。ねがわくば、あなたからよくよくお申しきけ下すって、それこそ展望的に悠々とするよう、泉子の出来ることは実に限りがあり且つ歯痒いでしょうが、そこが辛棒のしどころと、よくお教え下さい。泉子は言葉すくなく、しかし眼にも頬にも燿きをてりかえして居ります。わたしはちょいとひやかします「あなた案外落付いた風ね。無理しない方がよくてよ」すると泉子曰く「ええ。ありがとう。」そして笑うと、真面目になって申します「私は却って心配な位よ。だって私には私の分としてしなけりゃならないことがまだどっさりあるのよ。アンポンになる迄に。だからね今からボーッとしては大変なの。大いに奮励しておかないと安心してアンポンになれないでしょう、間に合うかしらと寧ろ心配よ」好ちゃんは幸海外にいたのではないからまさか三年はかかりますまい。緑郎なんかどういうことになるでしょう。只交戦国人として抑留されたのではないから。ベルリンなんかにいた日本人の中で動きかたが目立ったということは、単純ではありませんから。
今ここには岩本の文子さんというのが(先生)来て居ります。子供の世話を見たり台所手伝ったりして、前坐の方の部屋に居ります。二階はあいているのよ、お母さんが昼寝におあがりになる位。二階は大変むし暑いのね。開成山では秋でしたからこんなに汗が出ると逆戻りでおどろきます。しかし、幸|蚤《ノミ》が居りません。ついこの間畳干して大掃除なさいました由。裏に出来た道路は丁度お寺の崖をこそげとってうちの裏の細い溝のすぐ上を通って居て、そちらの道の通交[#「交」に「ママ」の注記]人は自転車やオートバイで、すこし目より高いところを通り、外から内が丸見えです。竹垣を結ってあります。それでもこの間は二階に夕闇まぎれに人が入っていたとかいうことがあります。少くとも本月一杯は居ようと思います。一日に二階にいて、何か出来る時間はかなりあると思います。五つと三つというと、割合にこまかい手がいらないのね、それにおばあちゃんにしろ母ちゃんにしろ、子供たちのおかげで気のまぎれるところもあるのですから。
そちらの夏は大変涼しかったのね。お体のために楽でしたろう? 却ってあつい光線が恋しい位でしたろう。食事のこともましなのは何よりです。長野にいた戸坂さん[自注27]という人は営養失調で死去されました。卯女のお父さんは七日に一本田の卯女のところへ行き、出来る丈早く東京へ帰ると云うハガキを開成山で貰いました。もうきっと帰って居りましょう。芝のおじいちゃんのところのひとも、此際急に就職しようとか家内工業をはじめようとかいう気でもないらしい話です。どういう職業が、ふさわしいだろうかという意味のようです。(きょうの新聞、失業、一千三百万人位の由)一ドルは十五円にきまったそうです。ラジオは建設日本の声、というのを募集して居ります。四百字詰三枚ぐらいのものです。市川房枝、赤松などという婦人たちが、婦人問題の部面に活動をはじめるようです。
こちらも早寝になっていらっしゃいます。昨夜八時半ごろ
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