は一度行ったことがあります。たしか網走湖というのがあって、汽車が網走へ行く前四五十分程の間軌道の両側一面にオミナエシが咲いていました。僕はまだ殆ど少年と云ってよかったが一人でつめたいオホーツク海で泳ぎました。」「僕の四十四歳の肉体は肉体としても十分使用にたえること、毎日六時半に出発して四時半にかえる迄、その間[#ここから横組み]10分,10分,20分,10分,2時半、10分[#ここで横組み終わり]の休みあり――円匙十字鍬をふるい、モッコをかつぎ、トロッコを押して決して他の兵隊に劣らない。」「文庫本一頁読むヒマもないが不断に勉強していること。境遇は僕を奴隷とし能わぬ如くであります。」そして、きょうは網走で馬車馬の競争を見た話のハガキがありました。橇をつけて走るのですって。砂地の上を。わたしは雪皚々たる一月の晴天に、橇をつけた競馬を見ました、馬種改良のためにはその方がいいのですってね。信州での生活も変りましょう。あらゆる境遇に処することを修得したものがいよいよ日本のために役立つわけでしょう。そして殆ど全人口が、それぞれの形でそれぞれの修業をしたわけです。
庭は桔梗の花盛りです。青草が荒れた姿で背高く繁っているところに点々と澄んだ紫の花を浮上らせて居ります。きょうも練習機はとんで居ります。のっているのは若者たちでしょう。気分がわかるようね。歴史の景観の一曲一折は深刻であり、瞠目的であり、畏るべき迫力をもって居ります。悲喜を徹してそこに人類と諸民族の美と真と善とを確信するようなこころの勁さ、ゆたかさ、不抜さがいよいよ輝く時代です。いかにも心をやるように、自分の体を大空の中でくるり、くるりとひるがえすように飛ぶ音をきき乍ら、ああいう若い人に一粒ずつ不老の秘薬のようにこの「恒ある心」の丸薬をわけてやりたいようです。この波濤に処するのに素朴な純真さだけがあながち万能ではないでしょう。ラジオでくりかえされるとおり沈着であっても猶聰明でなくてはなりませんから。
まだ覆いははずしませんが、昨夜庭へいくらか光がさす位の灯かげのまま十時ごろまで坐っていて、明るくてもいいのだという新しい現実を奇異のように感じました。よく深夜都会の裏の大通りなんかで皎々としたアーク燈のゆれているのを大変寂しく見ることがありましょう? 明るい寂しさというものを真新しく感じました。いかに視野をひろく、視線を遠く歴史の彼方を眺めやっているにしろ、不屈なその胸に、やはり八月十五日の夜、覆わないでよくなった電燈の明るさは、一つの歴史の感情としてしみ入ります。東京にいたらどんなだったでしょう。焼けのこったあちらこちらの人家のかたまりは、やはり一つの銘記すべき歴史の感情として灯の明るさを溢れ出させたでしょうか。三好達治の商売的古今調もこの粛然として深い情感に対しては、さすがよく筆を舞わすことが出来ますまい。こういう感情のまじり気なさに対して彼に云われる言葉は一つしかないわ。「極りのわるいということが分っていい頃ですよ。黙りなさい。」
この五年の間、わたしはこんなに健康を失ったし、十分その健康にふさわしい形で勉強もしかねる遑しい日々を送りましたが、それでも作家として一点愧じざる生活を過したことを感謝いたします。わたしの内部に、何よりも大切なそういう安定の礎が与えられるほど無垢な生活が傍らに在ったことをありがたいと思います。これから又違った困難も次々に来るでしょうが、わたしが真面目である限り其は正当に経験されて行くでしょうと思います。
五月中の手紙でテーマの積極性ということについてお話しいたしましたろうか? 多分したと思うけれども又くりかえし思うので又云うわ。くりかえしたら御免なさい。
文学におけるテーマの積極性ということは文学上の問題として久しい前に云われました。随分いろいろにこねたわけでした。わたしは五月頃、忽然として胸を叩いて感歎したのよ。「ああテーマの積極性ということはこういうことであるのだ」と。五月の詩「五月の楡のふかみどり」のうたに連関して。云わば、はじめて鼓動としてわが胸にうったのね。一作家のテムペラメントとして内在的傾向として其は理解はしていたのですが。わかるということの段階は何と幾とおりもあることでしょう。そこで又改めて感じたのですが、文学のテーマの積極性というようなことは、よほど生活経験がいることなのね。説明してやるに骨惜しみをしては迚も分らないことなのね。文学感情=生活感情として、よ。まだまだすぐ、うんそうだというところまで日本の作家の歴史経験はつまれていません。或は最近数年間の諸経験の理性に立つ整理がされていないのではないでしょうか。この点大いに興味があります。これからは一方に輸出向日本的[#「日本的」に傍点]文学なんかが出るかもしれません。
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