なくなってしまうかもしれない場所へも行くだろうと思います。ここや東京やそちらと全く雰囲気の違う(家ではなくてよ、地方としてよ)あすこのことを考えると、あなたは誇張とお思いになるかもしれないけれども、わたしは涙を落さずに行く決心が出来ません。どうしても一度おめにかからないうちはいのちを惜しいと思います。
 わたしの二ツに挾まれた切ない心もちを御憐憫下さい。そして何かよい智慧をかして頂けたらと思います。多賀ちゃんに何かとお力になるように手紙出しました。
 今までとちがってあれこれの事情を綜合して考えると、お母さんのおこころのうちを思いやらずに居られません。余りまざまざと映るので、わたしは本当に切ないのです。そしてあなたも、ね。もし当分どうしてもそちらへ行けないと決定したら仕方がないから、わたしはともかく、お見舞に島田へ行って来ましょう。其も出来るかどうか分らないけれども。そしたらきっとわたしの切なさも幾分晴れるでしょう。わたしとしては、どうしてそうしてくれなかったかと、あなたが遺憾にお思いになるだろうと思うことを、そのまま放っておくことはやはり出来かねます。
 つまりはしなければならないと自分の心の命じる通りにしてみるしかしかたがないわ。ね、そして私たちの生活の一点の曇りなさを確保しなくてはなりません。しかし、先ずそちらへ行きたく熱中しているこころもちを許して下さい。

 八月十八日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書 書留)〕

 八月十六日
 昨十五日正午詔書渙発によってすべての事情が一変いたしました。
 十日以来、空襲がなかなか盛で(結局通過した丈に終りましたが)十四日夜は九時すぎから三時近くまで国男と二人で当直いたしました。田舎暮しで何にも分らず、十五日のことは突然ラジオで承った次第でした。昭和十六年十二月からあしかけ五年でした。前大戦の時(十一月)丁度ニューヨークにいて、休戦の実に底ぬけな祝いを目撃しました。十五日正午から二時間ほど日本全土寂として声莫しという感じでした。あの静けさはきわめて感銘ふこうございます。生涯忘れることはないでしょう。この辺は町の住民の構成が単純ですから、そして大きくないから到って平らかです。ただ新しい未知の条件がどういう形をとって実現してくるかということについて主婦たちも心をはりつめているようです。
 昨夜、もう空襲がないということが信じられないようでした。きょう、八ヵ月ぶりで、わたしのあのおなじみのお古の防空着を洗いました。一月二十八日に肴町附近がやけたのをはじめに十四日の夜も着て居りました。汗や埃まびれだのに洗うひまがなかったのよ。

[#ここから3字下げ]
けふこの日汗にしみたる防空着を洗ふ井戸辺に露草あをし
[#ここで字下げ終わり]

 あっちこっちに行っている人々のことを思いやります。原子爆弾というのは一発一万トンの効果ですって。達ちゃんどうだったでしょう。隆ちゃんはどうしているでしょう、富ちゃんは。林町の家がのこったのは不思議きわまる感じです。(多分のこっているでしょう)あんなに焼けているのにあすこがのこり従ってわたしの机も在る、椅子もある、本もある、何と信じにくいことでしょう。ああ原稿紙もやけなかったのだわ。それら仕事の道具を両腕にかき抱くようです。
 経済事情が様々に変化をうけることでしょう。林町もここも国府津もやけこそしなかったけれども、一人の人間がそれ丈の家の税は払い切れなくなるのではなかろうかと思います。わたしの事情も(経済)変りましょうし、わたしの小さい小さい財布ではすべてがいきなり底の底までつき抜けてしまうけれども、今のところ既定の方針を格別変えず、網走へ行くことを中心に考えて居ります。こちらは何の話もする人なしきく人なし、山の風雨だけでしたが、東京はいろいろもっとで切符のこともなかなかはかどらないのではないでしょうか。待ち遠しさはひとしおです。ここの周囲が農民や教師が主で、急に生活事情の激変する人がないため、太郎なんかのためにはいい場所と云えると思います。食糧事情があるし、咲や子供たちは当分(何年か)ここに暮しつづけるでしょう。国は生計の必要から少くとも何かしなくてはいけないでしょう。こうやって寝ころがってはいられますまいから、これはいずれ上京するでしょう。わたしのことは、ともかくお目にかかった上でのことで、今のわたしにそれ以外のプランはありません。
 親しい友人たちに大した被害のなかったのは幸です。てっちゃんのところも家族を仙台にやって、さてあすこがあれ丈蒙ってどうかしらと思ったところ無事、世田ヶ谷の家も無事。鷺の宮も家としては無事でしょう。卯女の父さんが信州に居ることは申しあげました。たよりが来て、オホーツク海で泳いだことがあるのですって。「網走へ
前へ 次へ
全63ページ中51ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング