八月十三日
 きょうは盆の入りだというので、小さい子供がすこしきれいな浴衣をきたり、花を剪ったりしてざわめいて居ります。今朝五時半にサイレンが鳴りましたが事なく目下は警戒中。小型は早朝から日没までかせぎます。
 さて、こんな漫画覚えていらっしゃいますか。サラリーマンが珍しい夏休みをもらったが、どこへか行きたい、行くには金がかかる。夫婦で地図を眺めて休み中暮している図。これは苦笑が伴うにしろ笑い草ですけれども、わたしがこうして日に一度は地図を眺め、研究して[#「研究して」に傍点]日を暮しているのは、やや惨憺ものです。いろいろな地図をみます。札幌鉄道局が十四年に出した北海道旅の栞というのは、旅行者に便利に出来ていて、網走町というところを見ると、山積された木材をつみこむ貨車の絵の上に、簡単に物産の説明があり、名所(景勝)もかいてあります。これでみると、網走の町から程よくはなれた駅から二三里入ったところに温根湯温泉というのがあって、神経系の病気にいい湯のあることもわかります。それから父が旅行に使ったポケット地図。三省堂の世界地図附図。更におどろくべきはここの家の戸棚から徳川時代に作られた内浦湾附近の地図があります。そしてわたしは安積山の風にふかれ乍ら、明治十二年発行内務省地理局の印のおしてある日本地誌提要という本をひらいて、北見というところをあけます。当時は総てで八郡あり、戸数は五百十一戸、人口二千七百七十人(女七百七十八人)あり、網走は駅路の一つの町であったと書いてあります。北海道志廿五巻という本もあります。明治十七年頃そこには病院しかなかったとかいてあります。大番屋があったと。
 祖父は若年の時、貧乏な上杉藩の将来を思って北海道開発の建議をして、年寄から気違い扱いをされました。その志が小規模にあらわれてこの開成山の事業となったわけでしょう。うちでは代々地図[#「地図」に傍点]をみる血統よ。父は若い時イギリスに行きたくてベデカーでロンドンをすっかり勉強していたために、父親が洋行帰りという詐欺にかかったのを神田の宿屋まで追っかけて行って金五十円なりをとりかえして来たという武勇伝があります。ベデカーのロンドンとその男の話すロンドンとでは違ったのですって。(一高時代のこと)
 おじいさんは、孫娘が、こうして北海道志まで計らぬ虫干しをして眺めたりすることのあるのを予想したでしょうか。札幌鉄道局の地図をみると、旅行者がいろいろ思いがけない間違いをしないように、必要な色どりが特殊区域にほどこしてあります。それをみると、わたしの切符のむずかしさが身にしみます。特に本月に入ってからはね、九日以降は。
 わたしはこうしているうちに段々一途な気になって来ます。どうしても行かなくてはすまない気がつのって来ます。その気分は、段々自分の身が細まって矢になるようなこころもちよ。雲になり風になりたいというのではなく、一本の矢となるようです。それは一条の路を、一つの方向に駛ります。そうしか行けないのよ、矢というものは。只一点に向って矢は弦をはなれます。狩人よ矢をつがえよ といういつかの詩を覚えていらして? われは一はりのあずさ弓 というの。弦が徒に風に鳴る弓のこころも ですけれども。
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わがこころ ひともとの矢 まだら美しき鷹の羽の そや風を截り 雲をさきて とばんと欲つす かのもとに いづかしの 樫の小枝に いざとばん わがこころ そやの一もと。
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 その矢が放ってくれる弓をもたない歎きの深さも矢のない弓の歎きに劣りません。或はもっともっと切々たるかもしれないわ。あとで、昼飯をたべたら、郵便局へ行って小包が出るかどうかきいて来ましょう。そして、もし出るようならわたしの代りに本と薬とをお送りいたしましょう。本は、本当に何がよいかわからなくて困ります。すこし支那関係のものがありますがどうかしら。御参考までに。『日本・支那・西洋』後藤末雄。『印度支那と日本との関係』金永鍵(この人は仏印の河内《ハノイ》、仏国東洋学院同本部の図書主任)。『支那家族研究』牧野巽 生活社版。この人は私は存じませんけれども、どういう人なのかしら。『海南島民族誌』(南支那民族研究への一寄与)スチューベル(独。民族学者)平野義太郎編。『十三世紀東西交渉史序説』岩村忍。三省堂。これは主として中世のヨーロッパ人がどんな風に東洋を知っていたかという側から書かれていてマルコ・ポーロがとまりです。創元で『河竹黙阿彌』河村繁俊。石井柏亭の『日本絵画三代志』明治からのです。著者が著者だから常識的ではありますが、気がお変りになるかもしれません。一ヵ月に一度の封緘故、本のことはよほど前もって分っていないときっとさぞ御不便でしょうと気になります。そ
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