の生涯も亦浪費から救われたということになります。よさをよさとしてまともに反映する、ということはうれしいことね。本当に快いことね、年月を経るにつれて、其の味の尽きないこと。人生の妙味というような表現は、大家連が月並に堕さしめましたが、その真の生きのいいところこそ、生けるしるしありと申すべき味です。そして、よさをおのずからよさとして滲透させるまでに反映するためには、鏡は恒に一点曇りなく正しい位置におかれ、そして私心あってはなりません。小さい鏡でも天日をうつし得るというのは面白いと思います。
 こうして、不規則な形にこわされたものの間で営んでいるような日常生活の中で、実にくりかえし、くりかえし人間の小ささと偉大さとの不思議な関係について考えます。人間のしなければならない下らない、下らない小さいどっさりのこと。そんな事をしなくてはならない人間が、一面になしとげて行く偉大な輝やかしい業績。その関係は、何とおどろくべきでしょう。ノミにくわれてかゆがって追いかける、そういう事。それが一つの現実だけれども人間は其だけではないわ、ノミの研究をいたしますものね、ノミの社会発生の源《ミナモト》を理解します。そして遂にノミを(くわれつつ)剋伏させます。ここが面白いのよ、そう思うと、よくくりかえしおっしゃった事務的能力が、どんなに大切かということも分ります、だって生活が混乱すればするほど些末な用が増大して労力は益※[#二の字点、1−2−22]大になり、其を益※[#二の字点、1−2−22]精力的に処理しなくては、人間らしいところ迄辿りつけないのですもの。わたしが、一日の間におどろくべき断続で本をよみ、一冊の本をよみ終せ、まとまった印象を得、批評し得る、という能力だって、人によれば刮目して其可能におどろきます。しかしこれはわたしの少女時代からのもちものよ、ありがたいことだと思います。そういう能力が、あらゆる面に入用だと思います。
 本と云えば、そちらの本どういう風に御入用でしょう、今月の一枚の封緘は、きっと島田へ行きましたことでしょう。何をお送りいたしましょうね、〔約百五十字抹消〕
 メリメはナポレオン三世の側近者だったって? そう? つまり彼のあわれな木偶としての境遇の目撃者であったというのは本当かしら。「柳の衣桁」の教授が書いたものの中に出ますが。アナトール・フランスは、この部分で「人間に対する好意ある軽蔑」というような言葉(要約)をして居ります、ここのところが、この作家の臍ね。ゴーリキイはあんなに(「幼年時代」その他)おそるべき無智、惨酷、苦悩を描きましたが、そこには一つも好意ある軽蔑というような冷やかなものはありません。ひたむきに対象に当って居ります、描いて居ります。一歩どいてじっと見ている、と云う風はありません。アナトールという作家は明るい頭によって洞察は鋭く正しいが、荒い風に当らず育った子供らしく、ちょいとどいているのね、目ではよくよく見ているのだけれども。謂わば、人生を実によく見るが、其は窓からである、というような物足りない賢さがあります。アナトール自身はこの「好意ある軽蔑」をもって中世紀末頃のフランスやイタリーの作家のかいた「ディカメロン」その他を、人間らしい健全なものとして評価するために使った要約ですけれ共。やっぱり終りまでよんで見たい作品ですね。
 きょう、わたしのこころもちは面白いわ。何と申しましょう。夏の日谷間を流れてゆく溪流のような、とでも申せましょうか。こうして、しっかりしたやや狭い峡《はざま》を平均された水勢で流れて来た気持が、今ふっと一つの巖をめぐって広いところへ出たはずみに、くるりくるりと渦をまいて居ります。波紋はひろがって、抑える力がないようです。流れの上に、美しい幹のしっかりした樫がさしかかっています。波紋は巖をめぐって出た勢で、大きく大きくとひろがり、渦巻く水の面に梢の濃い緑を映します。やがてその見る目にさえすがすがしい健やかな幹を波紋の中にだきこみました。この底にどんな岩が沈んでいるというのでしょうか、波紋は流れすすむのを忘れたように、その美しい樫の影をめぐって、いつまでもいつまでも渦巻きます。渦は非常に滑らかで、底ふかく、巻きはかたくて中心は燦く一つの点のように見えます。樫の樹は、波紋にまかれるのが面白そうです。時々渡る風で、梢をさやがせ波紋の面も小波立ちますが、樫はやっぱり風にまぎれて波の照りからはなれてしまおうとはせず、却って、一ふきすると、枝を動かし新しい投影を愉しむようです。樫は巧妙です。それとも知れず、しかも波紋のあれやこれやの波だちに微妙にこたえて、夏の金色の光線にしずかにとけて居ります。そこには生命の充実した静謐があります。

 八月十四日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書 書留)
前へ 次へ
全63ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング