切符が出来るかしらと思って居る有様です。
考えると、父は思いやりが深うございました、わたしのこころもちの内の姿も或程度は見ていたのでした。その思いやりと正直な廉恥心のようなものから父は自身の晩年に少なからぬ不如意を忍んだのでした、しかし其は気の毒のようですが、父のために慶賀いたします。もし仮に父がそういう感覚のない処置をして僅か二三年の晩年を過したとしたら、父の生涯は極めて平凡な、ありふれた老人の世俗的処置で終り、少くとも、わたし達が、其をよろこびにも誇りにも思うような初々しい、老いて猶若々しい人間らしさを感銘させることはなかったでしょう。
今のわたしのような待ちかねたこころもちで、何一つ待つということのないような、日々の混雑と国とすれば「快い無為」(咲ばかり忙しい)生活の中にまじっているのは一修業です。本当にそちらのお暮しはいかが? 山は近くに見えるのでしょうか。
わたし一人が遠く旅行するのは心許ないという意見があっていろいろ話が出て居りましたが、寿が、ね、一緒にそちらで暮す気になって来ました。はじめは只一人でやれない、と云っていたのですが、千葉の今いるところは、この節「雨霰れ」となって来ましたし、信州の追分なんてところは、食物の問題で到底いられるところでありません。寿の居どころについては心痛して居りましたが、自分もよくよく感じたと見えて、つまりこの際生活をすっかり切り換えて、人生の新発足をする機会を見出そうと決心したらしいのです。北海道へ行き、私はどちらかというと特殊な条件で制約されなければならないから寿はどこかすこし離れた町で、もし出来たら専門の仕事もいくらかして結婚の機会も見出そうと思う風です。
寿が三十一歳になる迄、この十何年を病気の故ばかりでない、どうにでもなるということのために却って浪費した傾だったのを、残念に思って居りました。今になってそう思いきめたとすれば、昨今の生活が教えたところが甚大であり或意味では敗北もし、そして或は却って地道になるのではないかと思います。そういう打合わせのために、八月一日に突然参りました。開成山へ来たと云ってもここへは来ず、よそに行ってわたしを呼び、咲が宿をこしらえ、そこへ弁当なんか届けるという気の毒な始末です。
そのときはっきりそういう話が出て、一緒に立とうかどうしようかということになり、わたしは先便で申上げたような順序で行くわけだから、先ずわたしがせめて一遍あなたにもお目にかかり、改めて寿は寿のこととして人に世話も頼んだ方がよいということになり、青森まで船にのる迄が大変だからそこまで送ってくれて、七八時間青森にいて水煙も立たないようなら其で安心して一旦かえり出直すと、いうことに決着いたしました。
わたしとして、それは寿がどこかに来ているというのはどんなに心丈夫かしれません。そして、あの鼻ぱしのつよいいつもわたしが大事として考えることを、どうにかなると軽くあしらって来た寿が、ここで一つ考えを変える丈、様々の思いを人知れずして来たかと思うといじらしくなります。わたしは沁々思うのよ。人間は人にも云えない、というような苦労はするものじゃないわ、それは余り人間をよくしません。人間の苦労や困難は、筋さえ通っていれば、其がよしんば沈黙のうちに堅忍されていようとも天下公然のことで一つも、人に云えないことではなく、云わない丈のことです。戸塚の母さんを見てどんなに強くそう思うかしれません。芸術家は、人間中の人間なのだから、苦労は最も人間らしい苦労を公然とやるべきで、其の生活そのものは作品です。作品を半分丈かくしておけるものでないと同様にその生活も、人目にかくすところがあろうわけはありません、失敗だって何をかくす必要があるでしょう、もし当然な心の動きに立ったのなら。動機が純一ならば。ねえ。寿が、北海道へ行って暮そうと決心したことで、これまでのいらざる頭のよさ、先くぐり(すべて俗っぽさ)をすてて、あの人の本性にある粘りつよい質朴な、芸術を生むまでに到らなくても理解するこころ丈を正面に出すようになったら一寸見ものと思われます。あの人は誰からも、わたしより「大人っぽい」と思われます、それは悲しむべき点よ。寿に云わせれば、「末世に生れた」からだそうですが。そういう肯定のモメントを見出すのもバカニハデキヌことでしょう、そしてそれがあの人のマイナスだったのですが。
九族救わる、という言葉のあるのを御存じ? 坊さんの言葉よ。一人出家するとその功徳によって九族が済度されるということがあります。
善良なるものの影響ということを深く考えます。父の場合にしても一つの例です。その善さは、卑俗になりかかる心に一つの善さを呼びさまし、終にその生涯を美くしくあらしめましたし、寿の場合にしろ、やはりこれが成功すれば彼女
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