白いが、あれは失敗の部分のある作品です、其にもかかわらず、あれは愛好するわ。そういうものなのねえ。作家としてはその点がひどく自省されます。愛される作品とはどういうのでしょう、ただ賢い作品ではないし、只鋭い作品ではないし。ベルジュレ先生に対してナポリ学者が云って居ります。「人の心をなぐさめ聖なる言葉」を発する「正義と博愛の使徒たらんことは欲しなくなった時」フランスの魂は人々の心を打たなくなった、と。作品も同じだと思います。そしてそういう作品は作家が、生命の滴々をそそぎこまなくては創れません。滴々とそそぎ込み得る生命の内容を、生活の時々刻々によって蓄積して行かなければ。この千古の真理は、何と恒に新鮮でしょう。人間が生きる限り、老いこむこと、お楽《ラク》になることを決して許さない鉄則の一つです。
 この頃一寸した事から面白いことを発見いたしました。祖父は大久保利通と共鳴してここの開墾事業に着手したのですが、当時国庫から全部の支出をしかねて、郡山の金もち連を勧誘して開成社という出資後援団体をこしらえざるを得なかったのね。開墾が出来上ると、出資者たちはおそらくその額にふさわしく農地を所有したようです。そして、小作させました。そのために現在でもここは大地主が多くて、土地に自作農が少い場所です。純真な気持で福祉を考えて開墾した祖父が完成後に心に鬱するところ多かったのも、一つにはこういうことが原因だったのでしょう。祖父は、村から住む丈の土地、野菜をつくる丈の畑を貰って終ったのですが、猪苗代疎水事業の組合があって、そこに巣喰う古狸がいてね、横領で二十年間に資産をつくり現在強制疎開を口実にうちの地面にわり込もうとして小作に拒絶されつつあります。昨夜その男が来てね「わたしはハアああいう信用ねえ人間とはつっかわねえことにしています」と意気ごんで云って居りました。何かコンタンがあると誰しも云っています。この男は、いい畑をつぶして田にして(「農業営団」にうりこんで)疎水の水をまわすとうまいことを云い今もってそこは田でも畑でもないものになってしまって水はカラカラ。今までの田から水を引くと云ってみんなに反対されているようです。うちの畑もあやうく失くなるところでした、そしたら今たべているジャガイモもキャベジもなかったわけです。大した大した恐慌でしたろう。雨が多かったのに急に暑くて湿気の多い畑のジャガイモは煮えたようになって腐りはじめました。

 八月八日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書 書留)〕

 八月八日
 この二三日急に暑さが加りました。こんなに風の通る南北の開いた室内で、きのう、きょうは午後二時頃九十度近うございます。そちらはいかが? 今年は不順で、ひどく涼しすぎたところへ急に暑くなったので、体の調子妙で、脚気にでもなったような工合です(勿論そうではないのよ。然し暑熱に対していい脂肪絶無の食事ですから疲れやすいのでしょう)
 そちらいかがお暮しでしょう。わたしは気の毒な昔の女旅人のようにここに止って、一日一日を待ち乍ら、遙かなところばかり思いやって居ります。昭和九年の夏(六月以後)こんな気持のときが続きました。母の亡くなった年の夏で、父が居りました。夕方なんかわたしが、ついそういう顔付していたと見えて、そんなときは夕飯後、父がよく「又一まわりして来ようか」と発案しました。すると国が車庫の戸をあけて、わたしや父は浴衣がけでのり、ゆっくり涼風にふかれ乍ら、ずーっと気象台の下から濠端に出て、ひろい凱旋道路のところから桜田門の方へ出ました。そして、そこらの濠端で降りて、団扇などつかい乍ら柳の下からわたしの気になる方角を暫く眺めます、まとまりない話をし乍ら。「そろそろ動くか?」「そうね」そして又のって、ぐるりと廻って銀座の方へ出たりしてかえりました。ちょいちょいそういうことがありました。
 ここの夕暮は美しいのよ、西山に日が落ちかかると、庭の松や芝や荒れた梅やすべてが斜光をうけて透明な緑色にかがやき、芳しい草の匂いがあたりに漲ります。わたしはそういう夕方の中に椅子をもち出し、小さい本をよみ乍ら、涼み、休み、一日のガタガタのやっととりかえしをいたします。そちらの夕頃はどんな景色なのでしょう、先ずそう思います。あなたの御顔はまぎれもなくさやかですが、背景が全くないのは変に切ない気分よ。だって、一定の背景があるからこそ、それはそこにおいて描かれるのですが、何にもぐるりの景色がないのなら、その顔はどこにでも動きます。ついそこ、ついここにだって来るわ、何と其は近くに在るのでしょう、本当に、つい、ここにあるわ。ですから困るのよ、そして、わたしは屡※[#二の字点、1−2−22]話しかけたいのに。
 七月のうちに行ってしまえたらと思っていたのに、いまだにいつ
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