必ず人間がついている、その脈搏、その必然で充たされていなくてはならず、そういう、きびしいリアリズムの点つけから云うと、志賀直哉は、やはり偉いわ、セザンヌと同じ意味で。似た限界において。漱石が大衆性をもっているのは、或意味で、あのダラダラ文章イージーな寄席話術の流れがある故です。小説らしくない文章の人――山本有三、島木健作が、文学的でない人にもよまれるというのは、面白い点です。文化の水準の問題としてね。すこし年をとって、一方にちょいとした人生論が出来上ったりしている人物が露伴や何かの随筆をすくのも、程よい酒の味というところね。随筆とくに(日本のは)人間良心の日当ぼっこですから。ああ、わたしは、又わきめをふらず、一意専心に、このセザンヌ風プラス明日という文章をかきたいわ。のっぴきならざる小説が書きたいわ。文士ならざる芸術品がつくりたいわ。堂々と落付いていて、本質にあつい作品が書きとうございます。ブランカの精髄を濺《そそ》いでね。
今はもう夕方よ。台所から煙の匂いがして太郎は書取中です。
ところで、生活の中にはほんの一寸したことで、実に意味ふかい徴候という風なものがあるものだと思います。この間、六七年ぶりで、戸塚の母さんに会って、暫く話しました、五月初旬の詩の話も出たりしてね、そしたら、その頃、リベディンスキーの「一週間」を又よみ出したのですって。「わたしは泣きながらよんだんですがね」というの。ほんの小さい一句です、しかしこの表現は何と報導班員らしさにみちているでしょう、そういう表現はきまりわるく思った筈の人なのにねえ。そして、又暫くしたら、又何か読んだ話が出て又同じことがくりかえされました、「泣きながらよんだんですがね」私にはどうしても忘られないの、そして、忘れないこころもちをお話しずにいられないの、大切な大切な言葉の感覚、感じかたの吟味というも、生活のやりようで、どんなにでも変るものであるということの痛烈な教訓です。そしてこういうことも、考えます、ものは――人の心は充実していれば、感傷は生じません、愛に充実したとき、一心さに充実したとき、泣きながら、という風の感傷の形は生じず、思わず、涙あふるるという形です、これは本質にちがいます。泣きながら云々という表現は、卑俗で皮厚性であるばかりでなく、感動すべき事実と自分の生活内容の自覚との間に或る、あき間が生じた心理なのね。
そう思えば、云った人自身、その言葉の心理に、ほんとに泣ける位のものだと思います。
でも、泣きながら、ということを寧ろあるよい感じやすさのように自分から評価して云っているようでした。わたしは、自分のこころが一箇の杏か何かであって、荒々しい指で、ピッピッと、皮をむかれるように、苦痛でした。しかし其を其ままに云うような友情はもう存在していないのねえ。友情というものが経験する最も深い苦痛の一つを経験したと思います。静《シヅカ》が、昔を今になすよしもがなと朗詠したのは、現実がいかに、きびしいものであるかという事実への歎息ね。
或る人に対して、寛大になり遂に、内的な要求を敢てしなくなるということは人間の絶望の一方の形ね。ある見限りをしたとき、その人に対してわたしたちの心は何と平静でしょう、よしんば苦痛一杯でも、怒りはないのね。それは寂しいこころもちね、生きている間は、真に生きていたいと、どんなに、思うでしょう、わたし共、平凡な力量のものは、全く傷つかずに、生きとおす無垢な強さをもち得ないにしろ傷痕を償う立派さはどうしても身につけなければなりません。下らぬ、あくせくと苦労で自分をひっかいては勿体ないわ、でもねえ、惜しいわ。本当に惜しいわ。悧巧さなんて、其丈では何と頼りないものでしょう。
七月二十九日
太郎の勉強がやっとすんで、この机は又わたし一人になりました。今は「柳の衣桁」にとりかかって居ります。アナトール・フランスの鋭い洞察は、いつも手ぎれいな機智めいた表現をとるために、その意義の重さをそのままに示さないと思ったりし乍ら、しかし、眼は折々南側にくっきり浮び出て来た山並を眺め、心の底では物思いにしずんで居ります。きのう書いた手紙はまだ机の上にありますが、この封筒がそちらに届くのはいつかしら、と先ず思います。わたしたちの間の玄関や通路は又昨夜いたずら鼠にちらかされました。今朝はわたしは経験者ですから、音響で、そら落すよと叱呼したのに国ポケント突立っていて煽りでヨタついたのよ。
あなたの御旅行は困難なうちにもいい折に当りました。わたしが其を知ったのは二十六七日頃で十日足らずのうちに大体まとめてここまでは来たのに、夕立雲にかち合ってしまって。来月五日頃に切符を入手する予定で居ります。ああ、神よ、その海渡さえ給えよ。
きょうは夏らしい日光になって、芝庭や松が芳しい匂い
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