大変でしょう。戸塚の母さんは子供たちと丈生活するようになって大分さっぱりしましたが、この七年ほどの間、生活の裏面を黙って呑みこんで作家的押し出し丈を俗的に押して来ているということのため、人間が平俗にしっかりしてキツくなって何とも云えない美しい天真さを失ってしまったことは見ていて苦しゅうございます。そしてこのことは、芸術家として代うるもののない大切な何かを失ってしまったことです。芸術が天寵であり人間の誇りである以上、芸術家は天のよみする間抜けさ、一途さをもって、正直頓馬に美しく生きなければなりません。それは叡智に充ちるということとは矛盾いたしませんものね。
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[自注17]信濃町――一九三三年頃、百合子が弟夫婦と暮していた東京、四谷区信濃町の家。
[自注18]バチラー博士――一九一八年、百合子十九歳のとき、アイヌ人に取材した小説「風に乗って来るコロポックル」を執筆した時、滞在したことのある英国人宣教師。
[自注19]松山――顕治は松山高等学校に学んだ。
[自注20]大事な去年頃の書類――顕治公判関係の書類。
[自注21]一本田――中野重治の故郷、福井県一本田。
[自注22]直さん――徳永直。
[自注23]柳瀬さん――柳瀬正夢。
[自注24]戸塚の母――佐多稲子。
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七月三十日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕
七月二十八日 晴 爽やかな日、縁側に、荷づくりする物を干しています。昨夜は九時すぎから、二時間おき位にボーで起きました。南の山の方に光りも見ました。
きょうは爽やかな日となりました、暑いけれどもここらしくからりとした風が吹わたって。
上段の卓の一方に私がこれをかいて居り、左手に太郎が頭をかいたり唸ったりし乍ら、宿題をやって居ります。空の模様のため学校は休みで、宿題が出ていたのを、急にやるので、大さわぎなのよ。うちには、机一つ勉強出来るようにはなっていないのだから、太郎のフラフラも無理なしですが。この子は数学の方が国語よりすきだって。本を並べて見ると、成程と思います、わたしだって健全な頭をもつ子供だったらやはり数学の方が面白いわ。
この頃の子は五年で、立体なんかもやるのね。もし欠点をいうと、原理を知らなくて、キカイ的に計算法だけ(形式として)うのみにしているから、本式の数学勉強をはじめると、先ず円周率ということから、やり直しね。
只、いくらをかけるとして学んで居りますから。しかし、太郎も、こうして勉強するのが、自然と地になっている人間がいると、落付けるらしくて何よりです。勉強なんて、つまるところ、頭の体操ですものね、大切なことです発育には。
アナトール・フランスの遊歩場の楡の木を読みました、いろいろ感じ、アナトール・フランスという作家と自分とは、肌《ハダ》の合わない感じを、新たにいたします。アナトールの文章は体温が低いのね、知力で体温が下って居るようです。現代物語なんか素材としては忌憚なく作家としてまともな突こみで、大人らしくぶつかっているのに、わきから、書きすぎていて(作家自身のインテリジェンスの平静は乱されず)というところがありすぎて、文章がやせていて(磨かれすぎていて)迫力よほど低うございますのね、バルザックは、彼のめちゃくちゃさ(人くさくて)、面白いとしみじみ思います。文学の歴史ということを思いかえします。いろいろな素質の(秀抜な)集積として現代は、より凡庸な(彼等と比較して)作家にも、ずっと前進した地盤を示して居るのですものね、問題は、作家がどこ迄其を自覚し、どこまで自分をそこできたえ得るかというところでしょう。
バルザックは本当に面白いわ。昔トルストイに深く傾倒いたしました、そのころの年齢や何かから、トルストイのモラルが、その強壮な呼吸で、わかりやすい推論で、大いに、プラスになったのでした。けれども、明日の可能はトルストイの中にはないことねえ。妙な表現ですが、トルストイは或意味で、世界に対する声であったでしょう、バルザックは世界に対して一つの存在です。声は、整理され、或る発声により響きます、存在はそのものの存在自身で、その矛盾においてさえ、主張する生活力を示して居ります。わたしは、この頃、この、それが在るということの微妙さというか、意味ふかさを痛切に感じます。或るものが、或る在りようをするということ、そこには何より強いものがあります。ぬくべからざるものがあるわ。そしてそれが人生の底です。歴史の礎です。いかに在るか在ろうとしつつあるか、ありつつあるか。ほかに文句はいらないわ。小説もここのところがギリギリね。小説の文章というものはその意味から云って、一行も「叙述」というような平板なものがあるべきでありません。人間が考え動きしている
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