やめて夕飯迄横になります。又あしたね。
 七月二十七日 十四日に中絶してからきょうまでにもう十三日経ちました。
 十四日から十七八日頃まですっかりへたばって殆ど床について居りました。去年二月からの疲れが出たのです。体じゅうの筋肉が痛んで寝床に横になっているのも苦しいというのは生れてはじめての経験でした。松山[自注19]にいらした頃、体がひどく痛むことがおありになったのじゃなかったの? お母さんからそんなお話を伺ったように思います。臥て、転々反側しながら、こんな風に痛かったのだろうと思いました。なかなか楽でないものねえ。さて、市次郎の渋湯には一度入ったきり。たしかにあたたまってようございます。ここの家は、何しろ開成山の家の留守番をしていた間にセイロウまで自分の家へ運んだという連中だもんだから封鎖的で風呂も入りに行きにくいわ妙なものね、脛にきず で妙にするのね、自分から。
 十九日に急に切符が手に入ったので無理でしたが、帰京、二十四日の夜行で戻りました。もう生活の根拠のないところへ戻るのはこの頃何と不便で且つ悲しいでしょう。自分の米を背負って行くのだけれども、わたしはたっぷり背負えないから、つまりは米に追い立てられてしまうのよ。全く一人では能率も上らないし、私の健康程度では一人で東京へ往復したりする位なら田舎へ行かないがまし位よ、すこし極言すれば。十九日に行くとき郡山にはり出しが出ていて、北海道は売らないしいつとも分らないと出て居りました。二十四日に東京では駄目でしたが、二十五日の朝ついて訊いたら一日三枚だけ統制官の許可で売る由。至急手配いたしました。来月早々にこちらを立ちます。この隙にね、すこし西へ行って居りますから。この間、駄目になったとき、わたしは大変苦しい気持でした。宙に浮いてしまったような気もちで。どうぞどうぞわかって頂戴。わたしはそこから島田かどちらかにしか自分の暮すところを感じられないのよ。ここはわたしに落付けない生活ぶりです。早く行ってしまいたいわ。そして、普通の場合とこういう時節とは何とおそろしい異いでしょう。わたしはこれ迄随分旅行したし、その度にいろんな荷物を林町にあずけました。その間に失ったものはありましたが大体保管されて居りました。こんどはまるで異うのよ、わたしがまとめ切れず、運び切れず、おいて来たものはすべて失われるものとなりました。自分の体力が足りなくておしいものも置いて来る気持は独特ね、わたしの子供の時代からの原稿なんかもそのままよ、灰になってしまうのよ。大事な去年頃の書類[自注20]だけはどうやら移動可能にいたしましたが、其とても全部は全く不可能でした。世界中の人々が、こういう思いをして居るわけです、国外へ急に出なければならなかった作家たちは、自分の蔵書を失う丈でも苦痛でしたろう。この頃生活上の訓練について一層思います。わたし位のものでも普通の婦人よりは遙に生活の突変になれ、突然の無一物に馴れているわけですが、どこかに在る、というのと灰になるというのとではちがうものねえ。人間がいよいよ精髄的骨格をつよめないと、失ったものが、其人にとってプラスとならずマイナスとなってしまうのね。物の不確さがまざまざとすると、わたしたちは、これから書くもの丈がリアルな存在という気がして、猶更真面目になります。
 きょうは、こちらも夏らしくなりました。そちらはどうでしょう。夏のないような夏を過していらっしゃるのではないかしらと思って居ります。緑郎はカンサスの何とか湖のキャンプへドイツにいた大使たち、近衛秀麿、スワネジ子たちと行ったようです。従弟で、フランスへ交換学生になって行っていたのはグルノーブル(スタンダールの生れた町)にいてシベリアを経て帰りました。緑郎について、生活ぶりについて、いつか私が心配して居りましたろう? やはり其処がピンぼけで、くっついてろくなことはなかったわけです。そういう気分でそういう目に遭うと、人間はなかなかましなものになっては抜け出ませんからね、惜しいことだわ。それにつけ、緑郎の細君が、ああいう生れの人だったことを残念に思います。社交的な一種の環境を外側から見る力はないでしょうからね。揉まれて妙なコスモポリタンが出来上っては人間としてローズものです。残留したということはマイナスに転じました。どうなって帰るかということには心がかりがあります。
 卯女の父さんは応召して長野の方へ行きました。卯女と母さんとは一本田[自注21]の田舎の家へ行くそうです。直さん[自注22]の細君が久しい病気の後死なれました。柳瀬さん[自注23]という画家が甲府へ疎開準備中新宿との往復の間、駅で戦災死されました。実に気の毒です。鷺の宮は相変らず。近所へ戸塚の母[自注24]と子が越して来ています。どちらも昨今は収入がないから
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