空気、あの青天井、水の燦くしぶきのこころもちよさ。雨の日は大困却だったのですが、それは思い出さず。くたびれて猶あの美味な空気を恋いわたります。
江場土での暮しをこの間申しあげましたが、あの間にね、ハアディーの「緑の樹蔭」という小説をよみました。無名時代に書いたものでハアディーが半分はまだ建築家だった頃、しんから時間をおしまず村の聖歌隊の老若の男女の生活を描いたものでした。江場土での生活には時間の制限がなかったから、この時間をおしまず入念にかかれた作品の味が実にぴったりして、大作家の力量がまだ有名と、専門化によってちっともわる光りしない時代のよさ、ふっくりさ、人生への控え目な凝視というようなものを実に快く理解いたしました。それにつれてね、十五年頃あなたが屡※[#二の字点、1−2−22]わたしの仕事がジャーナリズムに近すぎる、ということを警告して下さったほんとの工合(何故なら其は言葉の意味ではないのですもの、意味という点では一応は分っているのですから)が、ああ此処、こういう違い。とわかりました。何年越しに分って、余りゆっくりしたお礼ですみませんが、あなたの生活にてらしてみると、あの頃わたしに分るようで分っていなかったジャーナリスティックなわる光りになりかねない艷、空気がわたしにくっついていたのであったと、明瞭に分りました。それは現在のわたしの生活は、そういう鉛くさい、せっかちな輪転機の動きから絶縁されて居り、それでそこから解放されているからです。
江場土での収穫の一つとして、これは小さくない獲ものと思います。
よく、作家自身の主題とその展開の独自なテムポとおっしゃったわね。それは、普通に分るより以上のことね。丁度独自な外交術[#「独自な外交術」に傍点]をもつということは、チャーチルには決して本当に分らないように、一人の作家が独自なテーマを独自に展開させるということは、なみなみでは私たち程度のものには会得されないのだと思います。自分に教える多くのものをもっているような生活に身を挺し得るか得ないか、それ丈の馬鹿正直さがあるかないかが第一着の問題であるし。(このすこし手前まで書いたら開成山からおけさ婆さんの婿が来ました。)
二十六日、きのう一日そのマサカズの出入りや注文(国の、よ)で大ごたつきをして、前晩空襲だった疲れがぬけきらなかったら、昨夜又候。昨夜はわたし一人にペンぎり。しかし二人きりで気が揃っているので割合楽でしたが、昨夜は壕に土をかけて小学校の前の疎開地へ出かけました。バケツ一つずつに水を入れたのもってフトンもって。あとは何一つもたず。今か今かと見ているうちに東方の烈風が起って来て火はくいとまり、うちのあたりは黒いままのこり、二時半ごろ再び白いつるバラの咲いている門の中へ戻りました。三月四日にバク弾のおちた前通りの家が三四軒焼け、肴町の通りから団子坂の手前左へ折れて細い道にかかった、あの右側がやけ、(団子坂の手前のやけのこりだった小部分)うちの裏は二側あっちまで、やけました。一時前に停電になってしまいラジオも電燈も水道もなしよ。こうして確実にやけのこりの部分を掃かれて行くのを見ると、もうもう居るべき時でないと思います。
わたしの田舎ぐらしの用意として、財務整理(!)のため来月初旬まではどうしても東京にいなくてはなりませんが、それ迄ここ数日大活動をして、ペンをつれて一応どこか山形辺の温泉に一先ず行き、そこで一ヵ月もいるうちに、きまればそこへ行くということにいたしましょう。温泉というのはね、マサカズの話で国の生活があの土地の生産者に寄食的にだけあって公共奉仕をしないので、不人気なのよ。「一人よけいに人をよびよせるのは、ハア其だけ自分の食い量が減るこんだから考えなさるがいいと云っているんです」作物を守っている人のこころもちはそうでしょう。わたしはそういう口にくるしい餌では生き難いし、わるい亭主をもったのと似ていて、中條さんと云えば旦那とわたしは別ですという生活はなりたちませんものね。こんなひどい東京にいて、私がこうしていられるのは、わたしの与える無形なよろこびやたよりに対してわたしに便利なように便利なようにと考えて、ナッパの一かたまりもくれる人が多いからよ。わたしたちにはわたしたちの存在の方法がおのずからございます。
それにわたしはこの頃右の腕が過労のため(人足仕事の)痛くて髪をとかすのもやっとです。こうしてものを書くこまかい運動は割にましですが。炎症をおこすのだって。ロイマというリョーマチのモトの仕業の由。ところが現代ではそのロイマ奴の正体が不明なのよ。おイシャにきいたら、サンショの皮を入れた風呂に入ってみなさいというの。サンショの皮をペンがさがしたら、見えていた道ばたの山椒の樹が若葉がくれしてしまって、駄目なの。その
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