簿や家計簿や。
こうしていささか心にいとまを生じ、部屋の模様更えなどをしていると、この夏どこですごすことになるのかしらと興を覚えます。もし急に北へ行かないならば、又一ヵ月ばかりも江場土へ行って見ようかと思います、そして、江場土という小説がかきたいのよ。北へ行くための荷もつのことや何かを一応きまりつけ、ここの人たちにもちゃんと話をつけて。わたしが北へ行っても菅谷夫婦はいるつもりらしいから結構だとよろこんで居ります。二人きりで困るならあの人たちのいい人を置けばいいわ。小樽のおばあさんにたのんで、秋田の大館というところから花岡へ行く途中釈迦内村というところに甥子の出征留守の家を紹介して貰いました。細君に子供二人。地図を見たらもうすこしで北の端れなの。余り田舎では女が勉強するのさえ驚異ですから、これはいざのとき困らないための候補地という程度に考えて居ります。では又。ペコをお大事に。風邪大丈夫でしょうか。
五月二十一日 [自注14]〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(野口謙次郎筆「十和田湖之春」の絵はがき)〕
五月二十一日
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妹は煤をつけたる顔のまゝわれ送るとて汽車にのり来る
おみやげの玉菜三つをもち重り十日目にまた焼跡に帰る
帰り来て雨戸あくれば焼跡をふかく覆ひて若葉しげれる
この年の五月若葉はこと更に眼にも胸にも濃く映るなり
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[自注14]五月二十一日――千葉県長者町に暮している妹寿江のところに行ったときの手紙。
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五月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
五月二十四日
昨夜は、そちらの方角はおさわりなかったと存じます。それでもおやすみになれなかったことは同様でしょう。
きのう、うちは、こんな工合だったのよ。先ず話は十九日に逆[#「逆」に「ママ」の注記]ります。わたしが帰って来て食堂に坐るや否やO子が、食事がたべられない、体がだるくて臥ていたと立てつづけに訴えます。細君である女が、そういう調子になれば、大体どんなことか想像されるというものですが、わたしはあなたも一つ田舎へ行って来なさい、と云いました。御目出度でないというのなら空襲神経衰弱なのかもしれないから行って来て気分をかえてさっぱりしなさい、と。台所も何も放ったらかしでやり切れなくなっていたし食物のことも変に神経質になっていたからそう申しました。御主人は二十二日に出張し、O子は昨日茨城の実家へ行き一週間は、わたし一人となりました。〔中略〕
ひとりきりは月当番ですし何かのとき危険ですからペンさんが又ひとりもの同様な生活なので用の合間に来るということになり、昨日は二人とも喜んで一緒に過し、田舎行準備の本の小包を十三ヶ発送し、ああなんて御ハンなんだろう! と夕食もすませました。一服してさて入浴と思っていたら、なかの口に誰か来て、それは目白の先生でした。六時頃来られる筈だったのに、〔中略〕電話で伺いを立ててから来ようとしたら池袋のぐるりに公衆がなくて歩き歩き千川の避難先のうち迄帰ってしまって出て来たのだそうです。声を揃えて笑いました。〔中略〕其でもペンさんは三、四年ぶりでこの先生に会ったのだしあれこれ話しているうちに省線が間に合わなくなり、こういう顔ぶれは珍しいというわけで泊ることに一決し、客間に用意をしたわたし達は二階へひき上げようとしていたらブーがはじまりました。
この先生はこれ迄二度ひどいときに来合わせて大いに助けて貰ったので、さて又今夜は小さくあるまいと冗談云ったらあの調子で、団子坂と肴町の間のやけのこり区域が又苅りとられました。幸うちの極近くへは落ちず。しかしシャーを三度ききました。二度目のシャーが終ったら、男が一人スタスタ入って来て御苦労さまと先生に挨拶しています。誰かと思ったら菅谷さんの父親でした。当直で田端駅に泊っていました。「奴等[#「奴等」に傍点]」が(そういうの)田舎へ行って私一人だから心配して、段々こっちなので駈けつけてくれたの。このひとはこういうこころもちの男です。〔中略〕「先生がいてよかった。おくさん一人かと思ったんで」と汗ふいていました。大変うれしゅうございました。
六時になって朝飯炊いてみんなにたべさせ、出かけるものは出てしまい、わたしとペンと其から一寸眠りました。久しぶりだったせいでひどく疲れました。午後は眠りたいけれ共夜目がさめると困るので床につかず。〔中略〕台所の手入れをし、それからこれを書きはじめました。ボーとなっていても台所は出来るという発見をして、台所やるようになったのだからわたしも練達したものです。人造石の流し、斜に光のさす窓でものを洗っていると、ああ江場土の井戸端が恋しいと思われました。あの
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