よ。おどろきも心配もいたしません。太郎なんか田舎でゾロゾロよ。よく処置しておきましょう。水道は林町辺は十三日以来全く駄目となりポンプを使って暮して居ります。ガスも出ず、です。宅下げの本のこと、このお手紙の分もお話のあったことも承知いたしました。いろいろの古典をすっかりおよみになったのはさぞいいお気もちでしょう。
今メレジュコフスキーの『ミケランジェロ』を読んでいて、ルネッサンスという人間万歳の時代においても、法王やメジィチや我ままな権力に仕えなければならなかった偉大な人々の苦悩に同情を禁じ得ません。ミケランジェロの憂鬱は、彼の大いさに準じて巨大に反映したルネッサンスの暗さね、明け切れぬ夜の影です。この頃沁々思うの。未来の大芸術家は、記念すべき時代の実に高貴な人間歓喜をどう表現するだろうか、と。[自注13]トルストイはアンナ・カレーニナの第一章で、不幸は様々で一つ一つ違うが幸福なんてものは一つだというようなことを云って居ります。どうして現代の歓喜がそんな単調なものでしょう。ミケランジェロが彼の雄大さで表現し得なかった歓喜が現代にあるということは、神さえも無垢な心におどろくでしょう。丁度息子のおかげで生甲斐を知った親のように、面白いわね。
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[自注12]これが一週に一、二度書いて頂けた時期の一番終りの分となりましたね。――顕治からの三日づけの手紙が未決生活最後の手紙となった。大審院の判決で顕治の無期懲役に対する控訴が却下されて未決から既決の受刑者としての生活に入った。面会は一ヵ月一回となり、顕治からの発信も一ヵ月一遍となった。顕治が六月十六日網走刑務所へ送られるまでに、百合子は一度(六月一日)煉瓦色の獄衣に変って、頭も丸刈にされた顕治に面会した。彼は作業として荷札つくりをはじめていた。
[自注13]未来の大芸術家は、記念すべき時代の実に高貴な人間歓喜をどう表現するだろうか、と。――五月六日にソ連軍を先頭とするベルリン入城が公式に発表された。五月一日のメーデーにこの世界史的事実を速報せず、六日まで待って、確実ゆるぎない勝利の事実に立ってはじめて公表したソ同盟の指導者たちの態度は立派だった。この時のよろこびは百合子に新しい世界史とその文学の情熱の創造を感じさせた。新しいよろこびと笑いが人類にもたらされたと感じた。
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五月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
五月二十日
青葉雨というような天気になりました、薄ら寒いことね。袂[#「袂」に「ママ」の注記]がなかったりシャツがなかったりで、こういう冷気に一寸ぬくもりどころないようにお感じになっていることでしょう。人間の衣類には手と足との岐れのほかにゆとりのいるものだと思います。小鳥の羽根がこんな日にはふくらんでいるようにね。
昨日の朝三時半に起きて、黎明の樹の下道を長者町の駅へ出て、九時前帰宅いたしました。一昨日申告して、昨日切符買えるようにしておいて。こんな一番で帰ったのは、空の安全のためと一昨夕電報がうちから来て、もう一刻もゆっくりした気でいられなかったからでした。キューヨーアリ イソギカエレ、とよむと、わたしにとって本当の急用は限られて居りますからはっとして十日間の休養一ふきでした、その前日空襲がありましたから。家の焼けるのなんかはものの数でもないけれども、ね。帰って、日暮里の道を下駄をわらないように重いものもってヨタヨタ来たらむこうから笑って来る男あり、其は菅谷君でした。何だったの? 電報、といきなり訊いたら、奥さんじゃ分らないかもしれないんですが、と、防火改修の支払受取の件なの。何だと思ったが安心いたしました。
こんどの十日間は、わたしにとって実に名状出来ない効力がありました、先ず、という心持で、すっかりのんびりしたし、永年の生活が形の上で一変化する切かえを大変いい工合になだらかに切替えることになりましたし、それにもまして心に刻まれるのは、ああやって江場土で暮してみて、はじめて寿のいじらしさが何の障害もなく感じられて、謂わば妹一人とりかえしたようなしんみりしたよろこびがあります。東京に来ているときは、遑しいし第一、ここの家に対する苦しい反撥した気分(無限の親しさを拒絶されたところから来る)とわたしへの親愛、寿の目からみればのさばっていると写る菅谷一族への感情なんかが絡み合って、あのひとのこじれ皮肉になっている気分は、いつもわたしを焦立たせ彼女の下らなさを切なく思わせます。結局こんな人なのかと思いすてるようなところさえ出来ていたの。江場土のあの小さい葭簀を垂れ下げた家のゴタゴタの中で、寿は自分の生活としているから、そして今度わたしが行ったのは、寿にしてもそう度々くりかえされようとは思わない逗留でしたから、
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