になったから空の下で視線にこたえる山の姿はおなじみ深いわけね。いつかお母さんがコンピラ詣りをなさったお伴をしたとき、内海の山々の遠景を大変興ふかく見ました、山陽道の面白味はああいうところね。

(3―3)
 こういう美しさを愛すのは、日本人独特のように思えます。月の動きに時間の推移を感じながら昔の人は光りの中に溺れて夜をあかしたのでしょうね。上等の人は、我を忘れて光を浴びていたろうし中級の人間は、風流たらんとして気をもんだでしょうね、一寸笑えますね、こういう水の上では絃の響がよいから、琵琶なんかよく聴けたかもしれません。実際は古ぼけた名所でしょうが、人間がこうして自然を生活にとり入れた形として好意を覚えます。

 五月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 千葉県長者町江場土中條内より(封緘はがき)〕

 五月十日。
 きょうはこういう手紙です。この鉛筆書でどこから書いているか見当がおつきになりましょう。昨日寿江子と長者町へ参りました。三時十八分の汽車で。雨がさっと降って来たりしましたが、長者町の駅へ着いた時には雨上りで、その気持のよさと云ったら。焼跡を歩き焼跡の間を汽車が走り、その揚句、柔かい雨上りの海辺の土と空との夕暮で申しようありませんでした。汽車も例外に混みようが少い由。長者町の駅へついたらピシャピシャ国民車(人力車の変形)が来て、寿のリュックやわたしの袋をのせ、草道を先へゆき、わたしたちは歩いて二十丁ほどゆき雑木道を抜けるといきなり目路がひらけて夷隅川が海へ入る眺望があります。狭いこんもりした樹かげ路からちらりと光る水で快くおどろき、そのおどろきが一歩一歩とひろげられて大きやかな河口の眺めとなる変化は、千葉にしては大出来です。
 寿の家はすばらしいものよ。わたしは物置小舎と思って通りすぎました。そんな家、豆ランプです。八、六、二。障子が六枚しかなく、六枚分は文字どおりのコモ垂れです。障子に新聞がはってあります。その二畳も畳なしのゴザ。畳一枚もなし、床にカーペットをしいています。テーブル、ピアノ本棚。テーブルの上では寿が靴下つくろいをはじめ(今よ)わたしがこれをかき、マジョリカの灰皿、九谷の皿という組合わせ。趣味において貴族、形はコモ垂れ。それでも一晩で休まったことはおどろくべき位です。この間うちから過労で右腕が変になって苦しかったのにきょうはさして苦になりません。よしきりが頻りに鳴いて居ります。麦畑の中にまだら牛が二匹います。妙な牛っぽくない鳴きようをいたします。豆の花がこの破屋のぐるりに蝶のような花を開いて居ります。

 五月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 千葉県長者町より(封緘はがき)〕

 五月十日
 ここでも警報はあります。遠い半鐘の二点鐘です。チジョチャンと呼んで、小さい頬ぺたの丸い男の子がよちよちと訪問して来ます。チイ公というダックハウンドの雑種のような大きい耳の茶色の犬も居ります、久しぶりでのんびりしてこんなものをおめにかけます。

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ひろびろと夷隅の川の海に入る岬のかなたに虹立ちて居り

よしきりのここだ来啼ける河口にかかる木橋は年古りにけり

虹かゝる岬のはての叢《むら》松は小さく群れて目にさやかなり
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(こういう景色の雄大な優美さは、なかなかブランカ歌人の力量に及びません。虹の大きい切れはし、その下の岬に松むらが小さくくっきり並んで見えるのは面白い眺めでしたのにね)人麻呂はこういうスケールが得意。

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青葉風肌爽やかに吹く日なりわれは若葦笛ならましを
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(うたのこころはあなたにこそ、けれども玄人はこれを腰折れと申しましょう、平気よ)
 ここには大体一週間ばかりの予定で居ります、そして帰ったら又人足仕事をして荷物を何とかして田舎行の仕度いたします。すこし永く落付くために財務整理(!)がいるので本月一杯はどうしても東京にいなくてはなりません。来月おめにかかるときどちらでしょうね。煙と焼棒杙の間からお顔を見るような感じでしたから、田舎でゆっくりと出来たらさぞうれしいことでしょう。どこにしろわたしもそこで暮すのよ。そのつもりで居ります。汽車どころではなくなりましょうから。東京も外へ出て、あの焼原のどこかにぽっちり樹も青くているところがあり、そこに住んでいること思うと(焼あとを疾走する汽車の中で)殆どふしぎです。

 五月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 千葉県長者町より(封書)〕

 五月十日(ムッちゃんという子が来ていてやかましいの)
 三日づけのお手紙、丁度きのう出がけに頂いて、袋に入れ、こちらへくる汽車の中でたのしいおやつとなりました。これが一週に一、二度書いて頂けた時期の一番終りの分となりましたね。[自注12]虱の話。大丈夫
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