男になるでしょう!
森長さんの用向きは通じました。日曜日にゆけるでしょうとのこと。しかし妙なものですね、お疲れになるのは閉口です、何よりも。
ヴィタミン剤益※[#二の字点、1−2−22]なくて、メタボリンはもう二ヵ月ほどありません。これからは注射しかないのかもしれません、岩本さんのところには大分お金は預けてありますが、手に入りにくいと見えます、
うちは、疎開の割当、強制ではないのですって。国府津をああやって使うことになったから、国はここに居ります。国がいて、急に人が一家族入ったのでは、私が困難一手引受けでやり切れないから、咲に町会へ行ってたしかめて貰ったの。強制でなくて大助り。どういうことになるかは今のところ判明いたしません。家を移ることはないでしょう、もうこの頃になると、一般の生活の感情は、大きいさけがたい変化を、今か今かと思っているようなところがあって、あわててあっちこっちする段階を通りすぎてしまいましたね。わたしは、さしづめ、冬のどてらとふとん何とかしなくてはならないと気が気でなくて。引越車の多いこと。
美校、音楽学校、みんな先生の首のすげかえをいたしました。ゲートルの巻ける人、モンペはける人に。結城素明というような七十歳も越したような先生や小倉末先生(ピアノ)のような大先輩は引こみました。国宝はこの際すべて引こめて、しまっておくというわけでしょう。博物館でやったように。
アラ、八百やだって。一寸待って頂戴。帯をしめ直さなくては、ね。布をかぶり、筒袖を着、縞木綿の前かけしめ、カゴ下げて出かけます。
犬が母娘でついて来て、どうでしょう、気のつよい雌犬が八百屋に出現して、ムキになってチンの首ったまにかぶりつきました。小さいくせに。女の人ばかりだからアレアレなのよ。エイ、と思って、その犬の頸輪つかんでギューギュー引っぱったら喉がキュークツになってはなしました。チンたらキャベジ籠の間にはさまってぶるぶるふるえているの。可笑しいのは、雄犬だと、大きくってもいじめたりしないし、チンも「わたし女よ」という風でつんとしていて、何と滑稽でしょう。腰がぬけかけみたいになって、一寸だいてやりました。犬抱くなんて、私の大きらいなことです。でも可愛がっているのね結局。だくのだもの、腰がぬけると。
この八百やへは高村光太郎先生もザルを下げて来ます、八分の一ほどのキャベジを貰うのよ。あすこは一人ですから。うちの半分ね。うちは四分の一の小さい半分貰います。芸術の神様たちの養分としてはいかがかと思われますね。
今このテーブルから見えるところに、あなたのドテラ二枚ふらふらと日向ぼっこして居ります、余りよごれず、来年使える程度なのは本当にありがとう。これを虫よけ入れて、開成山へ送っておきましょう、覚えていらして下さい。ドテラ二枚とも、よ。きのう洗った足袋もフラフラして居ます。
この間、歯医者の帰りに、ガンサーの『アジアの内幕』を見つけよみはじめました。あなたはヨーロッパの方を、およみになりましたっけか。考えかたや観察の深さよりもインフォーメーションが面白いのね。荒木大将邸の虎の皮や鶴亀の長寿のシムボルが西欧の目にどんなに映るかなどというところも、日本人として面白く且つ参考になります。
支那の部は大分面白うございます。東洋、日本が、どんなに分りにくいかというのは、この本を見てわかるし、例えば(三井)の祖先しらべの中に、藤原の出で、道長という青年貴族[#「道長という青年貴族」に傍点]が藤原をきらって宮廷生活を去り出生した村の名三井をとって姓とした、多分[#「多分」に傍点]修養のため隠遁したのだろう、と日本人としては、著者としての信用問題にかかわりそうな間違いを犯して居ります。インド、アラビアにまでふれているから、面白い本と思います、「ヨーロッパ」の方が、ましであるという意見は本当でしょう。同時に、日本人[#「本人」に傍点]が東洋をどの位知って居り、近似感をもっているか、ということについても反省されます。近くて、而も遠いというのが日本と他の東洋諸国とのいきさつのようね。日本人はちがうと[#「がうと」に傍点]いう、習慣的な考えや感じが日本人につよくあって、その程度は他の東洋人に推測がつきかねるところに、いろいろ複雑になるところもあるでしょう。
きのうここいら迄かいたら、庭にいた犬が吠えはじめ、ピー、ピーと短く区切った口笛がしました、太郎の口笛なの。マア、太郎ったら。すっかり田舎っぽい日にやけた顔色になって、落付いた少年ぽさで、田舎言葉で、見ちがえるようです。よかったこと。黙って大にこにこで。早速裏の親友ミチルちゃんと遊びはじめました。うちの連中のいいところは、田舎に対して都会風の偏見が全くないことです。子供は、だからすぐ自然田舎言葉になって、周囲とも自然にとけ合ってしまうのね、先生もいい先生ですって。何よりです。東京のこの頃の暮しの空気に追われていない先生の方が、子供を育てる、という仕事に気がまとまるらしいのね。こういう時勢の力で、却って太郎や健坊が田舎で日にやけ、生活能力がひろがって育つとすれバ、一つの大きい幸です。わたしが、こんな台所仕事で、体力は、いくらかましになったように。
太郎はどうしても九日か十日に帰らなくてはなりません。国府津の家の片づけその他で咲はもうすこしいなくてはならないので、もしお許しが出たら、わたしが太郎を送って行って、一日二日休んで、山々も眺めて、そして帰って来ようかと思います。親たちはそうすると好都合だし、トラックを利用出来るという、この際稀有な便利にあずかれます。わたしはわたしで、太郎と自分のチッキで荷物をすこしまとめてあちらに送れるということがあり、国も息子のお伴をわたしがして、おかみさんのこしてくれれば、田端まで荷運びもしてくれるでしょう、(荷運びもなかなかの問題ですから)急な思いつきですが、みんな好都合ということだし、わたしははりきりです。そちらに御不便でなければうれしいと思うけれども。いかがでしょうね、行けたら大いに能率的なのだけれど。いずれ明日御相談いたします。
この頃暑くなって、わたしは一人で万端やるのが、すこし重荷です、そちらに行くと、歯医者、お使い。その上での台所ですから。歯をわるくして今休んでいる女中さんが、もう一ヵ月もしたら来そうで、そうしたら汗の出る間大助りです。夏へばっては仕方がないから。そうすれば、仲々うまく行くということになるでしょう。
薬が買いにくくて困ったこと。全く困りです、ヴィタスなど島田へ伺って見ようかしら。
きょうは咲がいるので、わたしは床から体がはがれなくて。体じゅうはれたようにギゴチなくなって、幾度も幾度も寝つぎして十五時間ばかりねました、ひどいでしょう? ゆうべ九時に床へ入ったのよ。その代り休まってかんしゃくも起りません。熱はいかがでしょう、お大切に。やはり出ましたろうか。
六月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
六月七日夜
もうすっかり夏になりました、きょうなど、暑かったこと。暑いときに歯のジージーガリガリは一層汗が出ます。きょう、お会いしたのが五時だったのね。それから歯へまわり、かえって夕飯終ったら八時です。
ことしの夏はね、自分がすこし丈夫になったら、悲観のことが出来ました。のみ[#「のみ」に傍点]問題です、ことしはうちにノミが多くて、わたしは特にたべてみて気に入られたと見え、全く赤坊のようにやられます。痛くちくりとさすノミで、其は小さい体をしていて猛烈なのです、だもんだからこの三四晩、安らかならずという仕儀です。眠くて床に入るのに、チクリと体がビクつく位やられるので、むっくり起き上り、永年愛用の水色エナメルはげかかりの円い首ふりスタンド(竹早町以来の)ふりかざして、文字どおりノミ取りまなこを見はってつかまえます、わたしの眼もその位になったとはお目出度いと、目白のお医者様は祝賀をのべて下さいました。ノミとりまなこを見はると、眠けさめてしまって過敏になって、体中チカチカあついようになってノミも食いあき、こちらも疲れると眠るのよ。何と癪でしょう。イマズふりまいてプンプン匂う中に眠るのにね。
島田の二階のノミのひどさ。でも、あすこのは、土地柄とあきらめていましたから、ここの二階の奴ほどにくらしくはありませんでした。目にも止らないノミに向って、大憤慨の形相して突貫している滑稽なかざしの花については、万葉の諧謔も思い及んで居りますまい。御主人公の御機嫌という厄介なものをあしかけ三ヵ月かかって克服したと思ったらのみ奴にせめられ、泣かまほしです、却ってこっち(のみの方)が泣けそうだから大笑いね。ノミは実にいやよ。ちょこまかして、悪達者で。旦那様に云いつけるぞと云おうが、此奴め、ユリをくう奴があるか、とにらまえても、ノミの答えは一つでしょう、ピョンピョンはねろよチクリとさせよ、今がおいらの全盛時代、とね。ノミはドイツにもいると見えるのね。「ファウスト」の中でしょう? 蚤の歌。どんな神秘主義者にかかってもノミは「おいら」族ね、決して「われら」族ではないわ。南京虫はまけずおとらず穢い一族ですが、あれは徒党をくみ、集団的で会議をするようで「われら」風です。クロプイという劇をメイエルホリドが上演しました。すべての寄食的存在を表象したものでした。
きょうは、朝すこしおそく起きたので大いそぎで御飯をたべないうち、トマトの苗を植えました。千葉のです。移すのには大きくなりすぎていますが、丈夫そうだからうまくつくかもしれません。そのトマトはね、春ほうれん草をまいて出なかった畑をもう一遍こしらえ直して植えました。ほうれん草ではなく小松菜《コマツナ》だったらしいのよ、畑直すについて出ている小松菜をみんな抜いて、今夜ゆでて、お漬[#「漬」に「ママ」の注記]しにしてみました。その青々した色の鮮やかさ。それから田舎のお菜の匂いと味がしました。すこし燻りくさいような土くさいような。ああこれでこそ青い葉にはヴィタミンがあります、なのだと痛感しました。そして、殆ど生れてはじめて蒔いて、とって、ゆでたそのおひたしを、自分ひとりでたべることを千万遺憾といたしました。丁度二人前になったのですもの少いめではあるけれど。これで見ると、小松菜というものは、決して不味でありません、八百やのは、いつもこわくて水っぽくてよくないので、余り作らないけれど。
トマトがついて一つでも二つでもなるようになったら、朝や夕方、それをもいで食べようとするとき、どんな歌を思い浮べるでしょう。いろいろのうたを思い浮べ、千万残念に思い、しかしそれで涙のうちに食べるのを中止するのではなく、ちょいと頭をふって、二人分せっせと食べてしまうところが、わたし流の悲歎ぶりです。畑というものは、決して決して単に蒔いたから生えた、生えたから食う、という丈のものではないわ、生活的な多くの内容をもって居ります。
面白いことが二つあります。わたしは種をまいたり、苗を植えたりするとき、水をやたらかけて土のかたまるのが不自然に思え、泥はしめらしてもあとから水ビシャにしなかったの。姉さん駄目だよ、もっと水どっさりやらなくちゃあ。そうかしら。マアいいだろうあの位で。ところが、講座には、水をやりすぎて土を呼吸困難に陥れる害について強調していました。モラルめいた感想は、畑つくるにも野菜の身になれぬ。人間の慾ばりで、早く芽を出せという性急は駄目ですね、出さぬと鋏でチョンギルぞ、というのは、悪者の猿だとした昔の日本人はなかなかしゃれて居ります。
それから第二話。胡瓜の苗が育ちつつあります。これは、いやなの耐えて、ごみすて(台所からの)穴へ入って、そこから汲み出した泥でウネをこしらえて大いに努力したものです、八本。太郎が来て、フーム胡瓜つくってるの、これじゃ、うね幅がせまいよ、もっとひろくなくちゃ。いつの間にか倍ほどにひろげておいてくれました。子供の仕事だから浅く掘られてはありますが、「あっこおばちゃん」のよろこびをお察し下さい
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