、深田久彌の「命短し」、矢田津世子の「鴻ノ巣女房」というのをよみました。こういう小説家たちが、みんな一種の語りて[#「語りて」に傍点]、お話し上手となってしまうのは不思議なこと。内面へ立体的にきり込まず、面白い話しぐちという風にまとまるのね。栄さんなんかも生れながらの民話の伝承家ですが。何か日本の精神伝統の関係ですね。そういう点で、矢田という人は、円地その他真杉などという人よりは、まとまり且つ自分の小さい池をどうやらもったというところで生涯を終ったと思います。小さい池に楓の若葉かげも、白雲も、雨のしずくもしたたるという意味で。このひとのは庭上小池でしたが。どこまでも。人のこしらえたもの、ほどよさ[#「ほどよさ」に傍点]でまとまったもの。だから、秋の落葉に埋めつくされる、という場合もあるわけです。そうはないようにと、箒を手ばなさなかったところがあるでしょう。
 アラ、もうよさなくては。そして御飯たべて出かけるようにしなくては。きょうはネマキもって参ります。もうすこしましなのを、と思っていろいろ思案しておそくなり、やっぱりもとに納りました。これはきっと背中がやぶけてしまうでしょうね。

 
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