だからこう吹くといやね、外出しないですむので大仕合わせですが。
こんどは大変かりかたになってしまいました、二十一日、二十三日、そしてきのう届いた二十九日の分。
「ドン・キホーテ」のこと世田ヶ谷へきいてやってじかにそちらへ返事をたのみました。あの作品はほんとにそうでしょうね、そしてその男らしい笑いの中には、あの時代の頭をもたげた市民精神の強壮さも粗野さもあることでしょうし、罪のないひどいあけすけもあるわけです。「ドン・キホーテ」が完訳にならない部分というのはその部分なのね、昔から。大体中世から近世へかけての文学には、ボッカチオの或作品のように諷刺としてのあけすけがあり、それが後世の偽善的紳士淑女を恐れさせ、中世のドイツ詩なんか随分古語のよめない人には知られない傑作があるそうです。暗黒時代と云われ、宗教があれ丈残酷な威力をふるった半面に、そういう豪快なところがあったのは面白いと思われます。それにつけて今くやしがることがあるのよ、動坂へ家をもったときビール箱に五つも本を売ったでしょう、あのときわたしの旦那様は「惜しがる必要ないよ、いい新版がいくらだって出るんだから」と仰云いまして、愚直なる妻は二つの驢馬耳で其を承り、ああ、おしがるには及ばないのだ、と考えました。ところが、それから十三年経ちました。或る日旦那様が、「ドン・キホーテ」をほしがって、ないかないかとせめかけになりましたが、そのとき、日本には紙そのものが欠乏いたしまして、本にさえ「日本紙漉史」という本が出来、芥川賞は「和紙」という小説に与えられるという状況になりました。清少納言が「白い紙」いとめでたしとかいて、中宮から白い紙を頂くと、よろこんで、何を書こうと楽しみ眺めたことも実感で肯ける時代でありました。「ドン・キホーテ」の美しい插画入りの二巻の大部の本の姿が、驢馬耳細君の眼底に髣髴いたしました、そして思いました、今あの本さえあったらば、と。しかし、後悔先に立たずと云った古人はこの場合も正しくて、驢馬耳細君が、十三年経ってくやしがってみたところで、金文字で「ドン・キホーテ」とあった二冊の厚い本は決して決して再び現れることはありませんでした。おそらく驢馬耳の御亭主は余り慾が無さすぎたばかりに、あった方がよい本が、その中にあるかないかもしらべようとしないで売ってしまったのだと思われます。
ですからね、「ドン・キホーテ」や「プルターク」については、探すもくやしき一場の物語があるわけなのよ。「プルターク」だって全部揃ってもって居りました、カーライルの「フランス革命史」や何かと一緒に。そして、それらは震災にやけのこった本共でしたから、日本にとって決して意味ない本でもなかったのです。たしかに古い本[#「古い本」に傍点]の鬼面におびやかされすぎたのね。あわれ、その若武者も風車を怪物とや見し。
柿内さんの云っていること、全くそうね。きのう三宅正太郎さんが、「へつらい」のない世相をのぞむのが自分の悲願だ、と云う話を発表して居られ、関心を引かれました。へつらいを、すべてのひとは軽蔑し、しかも殆どすべての人々がそれに敗けます。アランが「デカルト」をかいて冒頭にこうあってよ、「それはまだ屈従というものを知らない時代だった」と。へつらいのおそろしさはへつらいの心理が根本的に非節操的なものであるから対象が変るごとに何にでもへつらうということです。へつらいの愛国心が国を破るのはこの為ばかりです。柿内さんと同じような意味で、「隠れた飢餓」ヴィタミンの欠乏状態が前大戦のドイツをどんなにひどいことにしたか書いている医者がありました。「隠れた飢餓」と云うのね専門で。ヴィタミンの欠乏を。そう云えば、メタボリンはいかがでしょうか、もうない筈と思いますが。ともかく届けておきましょうね。
二十三日のお手紙には珍しく詩話があって、大変愉しく頂きました。あの詩にはね、続篇のように、泉の歓びというのがあるのよ、あれは牧人の側からのですけれども、それはその森かげの温い泉の方からうたわれています。軟かな曲線で森にいたる丘のかげに泉はいつから湧いていたのでしょう。白いひる間の雲、色どりの美しい夏の夕方の鱗雲のかげが、泉の上に落ちました。或る大層月の美しい早春、一人の牧人がその泉に通りがかり、何ということなしそのあたりを眺めて居りましたが、渇を感じたのか、何の疑う様子もなく、その前に膝をつき、泉に口をつけました。泉は、日から夜につづいていた半ば眠たげな感覚を、その不思議に新しい触覚で目ざまされました。はじめ泉は、自分がのまれているのだとは知りませんでした。ただ、どこかから新しく自分の力をめざまさせる力の来たことを素朴におどろきました。そして思わず、さざ波立ちました。泉の上にあった月影はそのとき一層燦き立ち、やがて、くずれて泉の
前へ
次へ
全90ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング