中に一つの美しい人影を照し出しました。それは、牧人でした。牧人は泉にずっぷりとつかってしまって、温い滑らかな水の面に、きもちよい黒い髪で覆われた頭をもたげ、水の快適な圧力に全身をゆだねました。泉のよろこびは微妙な趣で高まりうたわれて居ります、泉は、そうやって浴びられ、身をつけられて、はじめて自分を知りました。牧人の靭《しな》やかではりきった体は、泉に自分の圧力の快さを知らせました。次から次へわき出でて泡立つ渦の吸引は、そこに同じ快さによろこんで活溌に手脚を動かす体がつけられていて、はじめて泉によろこびを覚えさせます。暫く遊んだ牧人が小|憩《やす》みをしに傍の叢に横わったとき、その全身に鏤《ちり》ばめられたように輝く露の珠は、何と奇麗でしょう。
牧人の自然さ、賢こさ、人間らしくよろこびを追ってそれを発見してゆく様子。
あなたはあの散文詩を、あなたらしく多弁でなく要約して書いて下さったと思います。詩にあらわされる精神と感覚のおどろくべき奥行きと複雑な統一は全く比類ないと思います。それは本当にどっちがどっちとも分けられません。精神の力がそれほど感覚を目醒ましく美しくするのであるし、感覚のすばらしさが精神にこまやかな艷やかな粘着力を与えるのであるし。私たちのところにいろいろの詩集があるということは無双の宝ね。これは形容でありません。どういう形ででも高められた生命の発露は詩であり、私たちは単に貧弱な読者にすぎないというのではないのですものね。
椅子をのりつぶしたこと、何とおかしいでしょう、そしてかわゆいでしょう。大方そういうことになりそうと思ったわ、そしてすぐバルザックが何脚かの椅子をのりつぶしたこと、思い浮べました。バルザックは誇りをもって手紙にかいているのよ、僕はもうこれで何脚目の椅子をのりつぶしたよ、と。
島田ゆきのこと、あれこれ云って御免なさい。それは、ジャーナリズムの最高形容詞に、凡俗な読者らしく支配されているところもあろうと考えます。しかし今日のジャーナリズムというものを考えると、総本山は一つですから、つまり、そういう最高形容詞をジャーナリストに使うことを要求する力と心理とが支配的なポイントをにぎっているわけです。ああこういうのは、とりも直さずそういういきりたち精神そのもののあぶなかしさが原因となっているのよ。どんな人にしろ平時で想像出来ないとんちんかんが起ることは予想して居ります。そして其は必ず、その最高形容詞の精神のとちくるった発露にきまって居ます。十二月の九日に、あれほどの勝算に充ちていてさえ、あれ丈のつけたりをしたのですものね。それに、とちくるいは、謂わば心理的擾乱で決して合理的な推論から出るものではありませんから、決してそれが局部的であるとか連続的でないとか、そういう判断に立っての上のことでもありません。だから、知識水準の低いところほどおそろしいのです。
あなたの占星術は合理的でそのものについてわたしは勿論どうこういうわけはないのよ、しかしね。それでも、もう決心しました。あなたはどうしても行った方がよいと思っていらっしゃるのだし、行けるときに行っておくべきのは明らかですし、参ります。もうこの話はやめましょう。行かなければならないから行くのに、多くいう必要はないわ。心からあなたの占星術の当ることを希望いたします。
川越の方はお話した通り。ここもつまりは引越しますまい。御主人公の考えかたは、生活一新のための絶好の機会とか、程度の差があってもよりましな方という風にゆかず、新しい方を借金して買って(きのう買った人は十三坪の家(借地)六千六百円よ)さてこちらを処分するとなっても、そういうものの売買の統制のために借金が返せないということになりそうだからやめるという風の様です。子供らを国府津にやって一先ず安心してそうなったようです。あちらへ行く迄に、平塚、横浜等、通過出来なくなるところもあり、どうせ遮断されてしまいましょうが。マアそれならそれでいいわ(引越しのことよ)ここがどうなるなどということは土台わたしにとって問題ではないのですから。わたしの留守の間にこちらが原っぱになったって、そんなことはおどろきもいたしません、勿論無事を願うのは自然ですが。島田へのおみやげ大分あつまりました、何はなくとも、ともかくめいめいに何かと思ってね。周囲の若い女のひとがどしどし挺身隊に入ることになって来て居ります。歌舞伎のような高級娯楽は一年間停止、待合芸者やも廃業、高級料理店も停止。これはさもあることです。一般人の生活とはかけはなれてしまって、百円の食事をしたと大声に喋る人間は、時局屋ですから。遊廓はのこされるらしい風です。
文学報国会で久米正雄や他の人が世話役で、作家の勤労者集団生活の舎監へのり出すことが進められて居ります。文士[
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