です。マア、お母さんわたしが、というのが自然のこころで、それでやはり参るのは参るから。どうぞね、目白の先生も、途中のゴタゴタとこの点だけよ、いく分どうかというのは。でもこれで二ヵ月のばして、わたしはいくらも丈夫になれません、ここまでになったのもマアいい方なのだもの。来年やもっと先が当にならないからきめてしまいましょうね。
ここの家を処分して郊外にうつろうという案があります。咲、私大体皆のりきです。この家の非能率性はこの頃もう殺人的パニック的よ、こころもちに甚大に及ぼして来ています。国府津へ行って、こっち留守番暮しというのがはじめの案でしたが、国府津は東海道線に沿っていて、何しろ前が本街道ですから、パンパチパチが迫って、あの街道を日夜全隊進め、伏せなんかとなったらもうもちません、そういう地点に、女子供だけ目だつ別荘にいるなどとは一つの安全性もないことです。この際この家を処分するのは、ここの人たちにとって又とない好機です。すこし荷厄介を負っているところはどこも同じ問題よ。
うちの通りの向側に市島という越後の大地主が、殿様暮ししていたのが、いつの間にやら水兵の出入りするところとなっている有様です。方丈記というのが戦国時代の文学であるのがよく分りますね、一つの家の変転だけ[#「家の変転だけ」に「建物としての用途」の注記]語っても。その市島の家は、もと松平の殿様のお休処で、一面の草原に白梅の林で、タンポポが咲くのを、小さい私たちが、からたちの間から手を入れて採ったものよ。高村光太郎は本でふところをふくらまして、小倉の袴にハンティングでその辺を逍遙していたものです。林町も変ったことね、そして今この通りでたった三軒ほどのこった古くからのこの家が又何とか変ってしまうと、全く昔日のおもかげは失われます。そして、この通りを占めるのは、何かの形に変った金の力だけというものね。
郊外へ家を見つけるについて、咲と私は、私も一緒と考えていますが、実際になるとどうなるでしょうね、タンゲイすべからずです。居る場所のない家しかないという工合かもしれないわね。それなら其のときのことと思って居ります。
すべてのものが、日々の目にもとまらないような変化の中で、何と深く大きく渦巻き変ってゆくでしょう、決して二度と戻りっこない変りかたをしつつあります。
セザンヌという画家は、人物を描くときなんか、椅子にくくりつけんばかりにして動くのをいやがったのですって、モデルが。あのひとの絵を見ると、しかし実に絵は動いているわ。ドガは描かれたものがそのものとして動いているが、セザンヌのは、画家の目、見かた、制作意慾が熾烈で、精神が音をたてて居ります。こっちからこれだけぶっつかるからには対象がひょろついていられてはたまりますまい。対象につよく、直角にぶつかっています。古典よんでいて、対象へぶつかり、きりこむこのまともさを今更痛感し、夜枕の上で考えていたら、セザンヌがはっとわかったのよ。むかしの人の禅機と名づけたところです。(思いつめよ、というのは、そこまで追いこんで、直観的に飛躍せよということなのですが、人物の内容が時とともに充実しなくては飛躍もヤユね)セザンヌの生きていた時代にはそうして対象を金しばりに出来たけれど、そして、そういう対象を描いていられたが、今どうでしょう、とくに作家として。どこで、何を、どう金しばりに出来るでしょう? おどろくほど沸りかえり流れ走るものを、その現象なりに描き出し、それが、現象[#「現象」に傍点]であることを芸術としてうなずけるほど、一本の筋金を入れるのは何の力でしょうか、ここが実に面白いわ、ね。
十三日の手紙で、科学の精神のこと云って居りますが、ここと結びつくのよ。こちらの洞察、現象の意味、有機性、そういうものに対する芸術家の力量だけが、現実を、それがあるようにかけるのでしょう、だから面白いわね、勉強に限りなしというよろこびを覚えます。ストック品などでは役には立たないのよ。用心ぶかく、軽井沢辺で、芋でもかこうように作品をかこって繁殖させていたところで、芋は遂に芋よ。だってそれは芋が種なんですもの。家というものは、藤村が或程度かきましたが、又新たな面からのテーマです。ああいう「家」のように伝統の守りとしての継続の型ではなく、それが変り、くずれて、新たなものになってゆく過程で。では明日ね。
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[自注6]眼が十分でない――一九四二年の夏、巣鴨拘置所で熱射病で倒れて以来、視力が衰え、回復しきらぬことをさす。
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三月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
三月二日
きょうは又ひどい風が立ちます。春はこれでいやね、京都はこんな吹きかたをいたしません。島田辺もそうでしょう? 風がきらい
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