キリスト教団の功罪と、日本などへ来た個々人の偉さとのくいちがいも面白いことね。その人々が遙々東洋へ来たのはどんな心理の動機でしたろう。十九世紀におけるアメリカの宗教復活の波とはちがったうちかたをしているように思えます。こういう時代の日本の科学性の一歩の目ざめ。それから、封建崩壊期にオランダ渡来の新教の形式尊重を脱した十九世紀の近代科学の摂取、このうつりかわりがいかにも面白うございます、日本の理性の覚醒の過程として。大化時代には、内在的であった日本の精神の可能が、思考の様式を学んだように思えるのは違っているかしら。わたしはせまいマスの間に、しねりくねりと身ぶりをした文士的小説はほとほと書く気が失せました。小説を愛する(文学というべきね)こころの本源は、人生へのつきない愛であり、其は、つきつめたところ、いかに生きるか、そして生きたかという厳粛な事実に帰着いたします。そこにこそ、尽きないテーマがあり、つまり人類のテーマがあります。テーマの本流に、作家は可能なかぎり、力をつくして近接すべきです。日光は潤沢ですから泡沫にもプリズムの作用から七色の彩を与えるけれども、それは泡沫が美しいのではなくて、光線はどんなに公平かということの美しさですものね。わたしは、テーマの本流に身を浴したいのよ。切に切に其を希います。文学においてだけ、どうしてポシャリポシャリと浅い水をはねかしていなくてはいけないのでしょう。そんなことはない筈よ、ね。わたしたちの生活において。特にわたしたちの人生において。
いつぞやの手紙に、わたしはおかげさまで沖へ出ましたといったでしょう? あれはここのところだと思います。先の頃、わたしは勇気と臆病さと七分三分で、ひょいとしたとき、岸が恋しくなったのね、人声やジャーナリズムのざわめきや、そういうものがききたくなったのでしたと思います。
来年の日記を何につけようかしらと思ってね、あちこちひっくり返して十三年の日記見つけました、一月丈かいてあるの、いい綴《トジ》だし、これにしようときめて、書いてあるところよんでみたらば、丁度十三年の封鎖[自注15]の当初だったのは面白うございました。そして同時に、すこし自分に愧しいの、あわてています。遑てるのは当然だけれども、あわてかたがね。堂々とあわてているというのも妙だけれどもマアそういうあわてかただといいけれど、上気せあわて気味
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