ります。沖へ出た感覚のまざまざしさ、おわかり下さるでしょう。
わたしの痛感することは、そのような可能を現実にもたらした一つの生活力の深さ厚さ活々さへの感歎です。人は何とやすやす偕に生きるというでしょう。ともに生きるということは、然しながら、どれほど大したことでしょう。真に生ききれる力量が、その無言の規模によって他をも生かすその生かせかたは、壮麗というべきだと思います。自身の生きる力の溢れによって、生きるべきものは、おのずからそれによって活かされてゆく、その創造の微妙さ。古代の埃及人は、肉体の創造されてゆく力、自然力を極めて率直に感歎して、視覚化された人体の形でその泉の下に生成する小人間を彫刻しました、彼等の壁に。その真面目な、原始の精神は、自然力の崇高な浄らかさを感じさせますが、今わたしの話しているような、こういう風な人間精神の生成の過程は、どういう表現であらわされるでしょう。文学と、そして音楽と。それしかないようです、そういう展開そのものが生粋の詩情と理性との全くすこやかな諧調からしか期待されないとおりに。人間の最も鋭い感性と雄渾な知慧との実のりです。
このようにして、わたしたちの愛する詩集の頁は、おもむろにひるがえされ、ひとしお溶けるように甘美であり、泣かしめるばかり調子高く、そして晴れやかにたのしい休息にみたされた新局面をくりひろげます。
大きく育つ樹はそれが天然だから、その育ちの大さを自分で知らないものかもしれません。しかし、その天真爛漫な樹も時には、自分の梢が、余り遙々と地平線を見はるかし、太陽がのぼりそして沈むのを見守っていることに心ひそかなおどろきを感じないでしょうか。
或る晴ればれした早朝、ふと目がさめて傍にすやすやとしているものを見たとき、それが自然である故にしみじみと新しくそのことを感じ直す、それに似たよろこばしき確認というものも、人生にはあります。そうでしょう?
一組のものが、どれ程の過程を経て真の一組となりゆくか、それを思うと、結婚などという字は、かよわい一画一画がくずれて、今は不用となった或時期までが足場の木のように思えます。
十二月十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十二月三日
もう十二月ね、今年があと二十八日で終ると思うと愕ろかれる心もちです。時間的に外からだけ見ると、時が経つのも分らないという位の
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