内心深く眺めやると、何とありがたいことでしょう、岸はいつしか遠い彼方となって自分は沖に出ていることを発見いたします。先頃、波に漂う自分ではなくて航行しつつある自分を感じるよろこび、そういう感じに導かれる比類ないうれしさをお話したでしょう? 勿論覚えていらっしゃるわね、それが更に継続し発展した自覚です。親船、子船にたとえて話していたのも覚えていらっしゃるでしょう? 今になって感じをたしかめてみると、もう二つのものとして、曳かれている子船はなくなっているわ、面白いこと。子船はもう、親船と別のもの、附属もの、ではなくなって、きっちり工合よく親船の舷におさまって、親船のスピード、波をける力を自分のものとして納っているのが分ります。親船がどう向きをかえようと、スピードを変化させようと、もう曳綱がゆるみすぎるとか張りすぎるとかそういう心配は全く不用になって、小船は、身の程は忘れないながら、サアどのようにも、とよろこび確信しているのです。この、きっちりと入れこになって、沖へ出た感じ、何に譬えたら表現されるでしょう。いやで目ざわりで、そら又近づいたときらっていたごたごたした岸はいつかはなれて、潮先が、地球の規律にしたがってさしひきしているその沖に、今や航行中という感じは、どんな模様の旗をかかげたらば語られる歓喜でしょう。
精神の船は、赤道を通過しました。小さい櫂でエッチラおっちら、やっていた骨折りも決して無駄ではなくて、其は曳き船となり、更にもっと本式の航行形態となりました。
人間の内容が単純である時期は、一冊の本をよんでさえも、知らなかった一つの扉をひらかれます。時を経て、仕事もすこし重って来たとき、いざ沖へ更に、ということはどんな者にとっても一つの難業です。芸術家は、自身に破産を宣告しなくてはならず、仮にその勇気はあったにしろ、条件が不均衡だと破船いたします。その例が、どんなに多いでしょう。その芸術家の誠実さと難破の危険とは正比例するようにさえ見えます。「伸子」からその後の切りかえのとき、難破必至と観察されましたが、幸に乗り切ることが出来、それから先の、もっと内部的な、もっと切実な、成長は、かくも身もこころも犇《ひし》と美しさの感動の裡に可能にされたことは稀有なことです。婦人作家の歴史は、ここに到って、真に新鮮な、メロディーをもって高鳴ると思います。個人のよろこびを超えて居
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