ば春遠からじ、ということを大分会得しているらしいから、ユーモラス乍らすてたものでもございませんね。そして、程々ならユーモラスなのもわるくもないと思うのよ、賛成なさいませんか。堂々とした樹と同じ丈堂々と出来っこないのだし、しゃっちこばって堂々めかして勘ちがいしているよりも、分相当に枝もそよがぬ風にこちらの草はちょいとはためいて見たりするのも愛嬌ではないの? ですから、あの歌謡にもあったでしょう? 嵐のさきぶれが大気の中に迫るとき樫の木が笑うと。それはすいかずらがそわついて樫が擽ったいからだ、と。あの通りよ。すいかずらにしてみれば、パタついて、ほれほれと樹に笑われて、一層安堵するかもしれないのね、草にだって神経があるから、神経の鎮撫として、ね。すこしこそばゆくないすいかずらなんか天下にないのよ。耳の短い兎がどこにもいないように、ね。
クライフは近頃でのいい本でした、太郎が成長してああいう本をよろこんでよむようになればいいと思います、きょう、イーリンの『時計の歴史』をもたせてやりましたが、まだすこし早いかもしれないわね、ふりがながないし。太郎のためにと思って、いい本みんな国府津へ送ってやってしまって、あすこもどうなることやら。地下室にしまいこまれているらしいようです。開成山の疎開荷物に、本の木箱二つが仲間入りいたしました。本をいじっていて感じましたが、本の大事にしかたというか重点のおきかたも、その人の成長の段々をきまりわるいばかり反映いたしますね。蔵書というものは大切なものね、その人の内部があらわれていて。文学者はとかく雑書が多いというのは、特長的で、しかもマイナス的特徴ではないでしょうか。
本のよみかたについては先般来、一冊の医者の本も、どのように読まれるか、ということを痛感していたので、クラウゼヴィッツのことも身にしみました。或る優れた人は、一冊の本も、其だけの事実というか、リアリティーとして自分に獲得して、その地点では、読んだところまではっきり前進しその点は確保するのね。平凡な読みては、自分とその対象を相《あ》い対《たい》にしておいたままで、ちょいちょい本へ出入りして、わずかのものを運び出して来て自分の袋へつめこんで自分は元のところにいるのね。この相異は、結果として、一冊のよい本についてみても、よんだ丈のことはあるようになった人間と、「それはよんだ」人間と、おそ
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