しいわねえ。わたしは、所謂遊びにはまりこめないわ。女が自覚しはじめたとき(十八世紀)そういう人たちが申し合わせて先ずカルタをやめた、というのは、素朴なようでなかなか意味のあることですね。昨夜いろんな話をふとしている間に、そんなことを痛感いたしました。ブランカのかくし芸なしに祝福あれ、と。
風に散るの中からの引用。わたしも感じをもって読みとった行でした。それはこの手紙のはじめに感じている非個人的、そして個人的、更に非個人的な高揚の感覚と等しいものです。アシュレが、誰かの句を引いたのね、スカーレットには一生かかっても分りっこない文句の一つとして。世田谷へかえす本もって参りました。間違わずいたしましょう。あのプルタークなつかしい本の形ね。(以下、この頃の郵便局のむずかしさを書いていて、墨で消されている。)
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[自注14]十七日――顕治の誕生日。
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十月三十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十月三十日
きょうも亦雨になりました。よく降る秋ね。まだ秋空晴れて、という印象のつづくときがありません。日本の秋も北方大陸の秋のように、先ず毎日の雨で示されるようになって来たとでもいうのでしょうか。今頃ヴルヴァールの枯葉が雨の水たまりに散っていて、急に雲のきれめから碧い空の一片がのぞき、その水たまりに映ったりしていた光景を思い出します。夏の夜は白い服の人々やガルモシュカの音楽や声々の満ちていたベンチが、人気なくぬれて並んでいてね。公園や並木道の秋、雨の日などの風情は、このぬれて空なベンチで特徴づけられます。リュクサンブール公園は今度の巴里の戦いでは主戦場になったそうでしたから、この秋あすこの美しい樹木や彫像や其こそベンチはどういう姿で秋日和の中にあるでしょう。十月下旬は驟雨が多いわ。その中にふとコーヒーの匂がするという工合で。ムードンの森も、きのこ[#「きのこ」に傍点]を生やして、しずかでゆたかな森と云えない秋ですね。リュクサンブールのぐるりには中国の留学生が多くて、あの人々のフランス語は自分の国の喉音や鼻音と共通なところがあるせいか、きわめて自在です。互に自分のことばで話さないのよ。でも、やはりこの附近のやすい支那飯やへ行くとそこは国の人ばっかりで(ああ。そうそう。裏へ返さなくては。つい忘れて)お国言葉で談論風
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