、あのわたしのたのしみにしているお喋りをくり出しましょうね。
言行録、ちょいちょいお先に拝見して思いましたが、家光の時代というのは、丁度いってみると明治興隆期(四十年ころ)のようなもので、実に卓出した人材が多かったのね。松平信綱なんか大した智慧者のように教わっていましたが、人物としてはもっと上品《じょうぼん》なる士が一人ならずいたようです。伊豆守は巧者なものなのね、智にさといというような男で、強く表現すれば極めて抜目ない秘書よ。剛直とか、深義に徹した判断とかいうことより、抜目なく世情に通じていてそれで馬鹿殿様や押し絵のように、ゆーづーのきかない役人を動かしたのね、常識家の下らなさがあります。大久保彦左衛門は、明治でいえば、何ぞというと御一新をかつぎ出す爺さんで直言が身上、但あの男だからと通用するというカッコつき人物ね。
本当の人物らしい人物たちは、昔風の忠義ということ(範囲)においてもつまるところは「事理に明白である」ということが基調となっているのは面白うございました。だからこそ時代をへだてた私たちに感興を抱かせるのね。同時に、そんなにきょうの日常は、事理明白ならざる混沌のうちに酔生しているのかともおどろかれます。
渾沌についてはきょうはすこし感想があるのよ。勉強をしている人間としていない人間とのたのしみかたの相異ということです。一人の人についてみても、その相異はあらわれるという事実についてです。何も本をよむばかりが勉強ではないが、本を読もうとする身がためには勉強の精神と通じたものがあります。生活の中心から勉強心がぼけると、遊びかたがちがって来るのね。只話していて面白さがつきないという風なところ、或は黙ってそこにいて何か面白いという風な精神の流動がなくなって、何か所謂遊びをしないとたのしみにならないような空虚さが出来るのね。丁度精神の低いものは、くすぐりやわざわざ茶利を云わなければ笑うことも出来ないようなのと同じね。人というものが、対手によって自分というものを表出する方法をかえるということは面白いものね。自分がもしそれぞれの人の高い面でしかつき合われていないとすれば、それは遺憾めいては居りますが、そちらの低さについてゆくにも及ばないことだわ、ね。同じ人に玄関と裏口があるのね、そうしてみると、わたしはやすホテルの室かしら。入口も出口も一つきり。あとは窓きり。可笑
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