いうような芸当は出来ないのよ。すると、そのうちにいつしか風は埃を運んで、遺憾ながら草履なしでは歩くに難き板の間よ、となってしまいます、風のつみよ、ね。わるいのは。
 この手紙終る迄甲高いあのチュウジョウサン! がきこえないといいと思います、八百や魚やの品わけが、午後というわけだったから。
 九月六日のお手紙。先ず本の予告の勘ちがいのこと、お詫びいたします。仰云ることよく分ります、わたしは、これでも追風に背中をもたせて足をすくわれない用心はして居るつもりなのですが、あの本のことは、すみませんでした。尤も、出版計画のなかったことを真さか、空耳できいたのでもなかったのでした。出版所の顔ぶれが急に変ったにつれて既往の出版プランは殆ど大半変更になった中の一つであったようです。ジグザグの幅で見てゆくことの肝要さは、これから益※[#二の字点、1−2−22]適切であり、さもないと帰趨を失うことになりましょう、咄嗟のいろいろのときね。よく気をつけます、つまり、勉強してよく万事を考えます、リアリスティックに。学ぶべき経験であったと思います。くりかえしますが、わたしの気分に立っていたのでなかったのは事実です。そうでなかった、ということには、よしんば出版されなかったにしろ、プランとしてもたれたところに意味があり、又中止されたところにも亦意味があるわけと申すのでしょう。紙の配給は又々縮少となります。『文学界』、『文芸春秋』、まだうまく手に入りません、六月号(『文秋』)があるきりで。気をつけておきましょう。『週刊朝日』送金いたしました。『風に散りぬ』どうしたというのでしょう、まだつきません、まさか途中で迷っているのではあるまいし。
 マンスフィールドの手紙は主として良人のマリに当てたものらしいようです。ちょいちょいした時間に、このひとの日記をよんで居ります。ごく内面的な、そして仕事と連関をもった日記で、今のわたしには、調子(本のたち)の合った読みものと感じます。自分の中に徐々展開するものが感じられているものだから、キャスリンの内部世界と全く違ったもの乍ら、小さい蕾が一つ一つ枝の上で開いて行くようなこまやかな、真面目な、地味なそのくせ、胸の切ないように活々した感覚のリズムが、このひとの日記のこく[#「こく」に傍点]のあるところと調和して、いいこころもちです。たまにこういう読書があるのね、逆に見れ
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