してやりとうございます。これからの益※[#二の字点、1−2−22]すさまじい時に、たった一人ああいうところにはなれていて、随分気のはることでしょう。食物のことなんかにしろカツカツ食べられるという程度だろうと云って居ります。釣り上りようが激しくてそういう予想を導くのでしょう。事実そうであろうと思われる全体の勢です。
きょうは火曜で、木曜とおっしゃったけれども、明日出かけてしまいそうです。くすりが欲しくて欲しくて。このかわきはどうしたのでしょう、外の光が午後四時で、余り緑と金とに溢れているせいでしょうか。そして、静かだからでしょうか。静けさの底にいのちの流れが感じられるほど、そんなにしずかな午後だからでしょうか。人気ない公園の樹蔭の白い像が、ひとりで生き出して、すきなひとのところへ歩きそうなのは、こういう緑と金との光に充実した午後の静寂の中でしょう、ありふれた詩人たちは、とかく月光に誘われてと申しますが。月の光は、白い皮膚にひやりとし、わが身の白さに像をおどろかせます。こんなしずけさ、こんな光、万物が成熟する夏の気温。その中で像は、いつか自分の姿を忘れ、すきなひとと自分との境さえも分らなくなってしまうのでしょう。きめの緻密な大理石が、とけて、軟くなり、重く芳ばしくなってゆくのはどんなに面白いでしょうね。
散歩に来る人間たちは、決してこの不思議を知りません。台座にこう彫られてあるのを読むばかりです。「いのちをかけて めでにき」と。実に微妙な光線の彩《あや》で、それらの綴りが、こうもよめる不思議を見出すものはありません「その胸に よろこびのしるしをつけん またの日」。
活々とした人間の世界には、数々の不思議があります。そして、それはみんな、人間らしさの骨頂の人間たちがつくるいとしいいとしい奇蹟です。奇蹟の発端は、純潔なこころの虹であったのでしょう。坊主が永劫地獄におちるのは、それを方便にしたという丈で充分ね。
「石炭王」をよんだつづきでゼルミナールよみはじめました。お読みになっているでしょう? わたしは初めてです。ゾラの小説の肌合いがなじみにくいところがあるけれども、描写の根気づよさにはおどろきます。あの時代の作家たちは、腰をぐっとおろしたら、なかなかのものね。シンクレアなんかは、ほんとに観察しているのかしら、と思うほど粗末で、素描的です。
炭坑の黒さ、重さ、やかま
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