やかなテンポというか、味というか。富ちゃんはきっとこう書いてよ、「光陰矢の如しと云うとおり」と。隆ちゃんのよさ満々ですね。天性の規模は面白いものです。短い何気ない表現の中に一種の大さがあります。隆ちゃんにわたしのやる手紙、本、ついているのでしょうか、ついたという文句は一つもありませんでしたが、この半年ほど。こちらへは航空便来ません。そして、来ても、あの人らしく控えめで、気候のこと、元気に御奉公のことばかりしかかかないのよ。それはやはりあのひとらしい味に溢れて居りますが。
達ちゃんも落付かないことでしょう。忙しく働いているでしょうね。
週報のこと分りました。お金一年送ってあって、それは来年までよ、多分。
この間古本屋でシンクレアの「石炭王」という小説を見つけました。大正の終りに枯川が訳したものです。金持の大学生が見学のため炭坑に入り、そこのひどい生活におどろいて良心を目ざまされ、不幸な人々のために一骨折るところですが、最後は妙なハッピエンドです。丁度水戸黄門道中記みたいに、どたん場で、大金持の息子という身分を明らかにして、暴力団のピストルを下げさせてしまいます。そして、働く人たちには、君たちの友達だよ、いざというときはきっと味方する、と金持世界に帰ってしまうのよ。
この小説を読んで感じること、学ぶことは、ああいう国の個人が自分の生活を自分で持ち運んで動きまわれる範囲の縦横のひろさ、ということです。何でもない人が、何でもなく、何でもある経験をなし得るのだし、その何でもある経験から、自然に何でもない生活人にすらりと入れるという、そのひろさ、深さです。わたしたちの周囲では、何か一つの際立った経験があると、周囲はすぐその人を何でもない人にはしておかないし、御当人も何でもない者になり切れず小さくかたまってしまう傾向です。一粒一粒の個人の内容の大小がこうして異って来るのね。風に散りぬの作者だって、あの小説かいたきりもう書きませんと何でもない人になるのですものね。日本の女で、あの位の小説かいて、何でもなくているでしょうか。
きょうは、もう手紙かきをこれでやめて働き出します。寿の引越しにもたせてやるもの、たのむもの、まとめなくてはならないから。咲、国、まだ帰らないのよ。明日どうするのでしょう、いずれにせよ私は行けません。
夕方ごろ帰って来て、じゃあ行く、と云ったってお伴に
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