一遍こしらえ直して植えました。ほうれん草ではなく小松菜《コマツナ》だったらしいのよ、畑直すについて出ている小松菜をみんな抜いて、今夜ゆでて、お漬[#「漬」に「ママ」の注記]しにしてみました。その青々した色の鮮やかさ。それから田舎のお菜の匂いと味がしました。すこし燻りくさいような土くさいような。ああこれでこそ青い葉にはヴィタミンがあります、なのだと痛感しました。そして、殆ど生れてはじめて蒔いて、とって、ゆでたそのおひたしを、自分ひとりでたべることを千万遺憾といたしました。丁度二人前になったのですもの少いめではあるけれど。これで見ると、小松菜というものは、決して不味でありません、八百やのは、いつもこわくて水っぽくてよくないので、余り作らないけれど。
 トマトがついて一つでも二つでもなるようになったら、朝や夕方、それをもいで食べようとするとき、どんな歌を思い浮べるでしょう。いろいろのうたを思い浮べ、千万残念に思い、しかしそれで涙のうちに食べるのを中止するのではなく、ちょいと頭をふって、二人分せっせと食べてしまうところが、わたし流の悲歎ぶりです。畑というものは、決して決して単に蒔いたから生えた、生えたから食う、という丈のものではないわ、生活的な多くの内容をもって居ります。
 面白いことが二つあります。わたしは種をまいたり、苗を植えたりするとき、水をやたらかけて土のかたまるのが不自然に思え、泥はしめらしてもあとから水ビシャにしなかったの。姉さん駄目だよ、もっと水どっさりやらなくちゃあ。そうかしら。マアいいだろうあの位で。ところが、講座には、水をやりすぎて土を呼吸困難に陥れる害について強調していました。モラルめいた感想は、畑つくるにも野菜の身になれぬ。人間の慾ばりで、早く芽を出せという性急は駄目ですね、出さぬと鋏でチョンギルぞ、というのは、悪者の猿だとした昔の日本人はなかなかしゃれて居ります。
 それから第二話。胡瓜の苗が育ちつつあります。これは、いやなの耐えて、ごみすて(台所からの)穴へ入って、そこから汲み出した泥でウネをこしらえて大いに努力したものです、八本。太郎が来て、フーム胡瓜つくってるの、これじゃ、うね幅がせまいよ、もっとひろくなくちゃ。いつの間にか倍ほどにひろげておいてくれました。子供の仕事だから浅く掘られてはありますが、「あっこおばちゃん」のよろこびをお察し下さい
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