。三月前の太郎は、畑掘ってくれ、と云ったら、だってエ僕と、体をくにゃりとゆすってことわり、あっこおばちゃんの腹を立てさせたものです。三ヵ月田舎で暮して、こんなにやる[#「やる」に傍点]ことを覚え、父親が姉さん云々駄目ばかりを出して坐っていることと対比して、この一寸の相異が、将来に太郎の人生に加える大きいプラスをこころからよろこばしく思います。太郎の疎開は皮相的な一身の安全を期す以上の意味があります、何をやらしても何だか頼りない連中の次に、すこしは物にたじろがない、ものと生活を知っている活力ある世代が、こうして田舎で育つというのは微妙な自然の法則のようです。少くとも咲はよくよくこの大きい意義を知り、責任を感じ又よろこぶべきです。フラフラ子供をつれて戻ったりしてはいけないわ、少くとも中学を出る迄ぐらいは。太郎の弱点であるくにゃりとひしゃげるところ(弱さ)が減って、小堅くかっちりとして来ました。生活があるからよ、あちらには。ここで、街上でのらくら遊んでいる空虚は害があるのです。東京にいると、生活がありません。何もさせない、親でさえ、十分はしないのですものね。田舎でそういう実行的な育ちかたをして、うちの、というのは、わたしたちの、よ、文化水準で教養を加えれば殆ど申し分ないわけです。太郎の将来の図書目録は、寧ろ太郎の素質が果してそれらをこなし得るやと思うくらい充実して居り、多方面であり、面白く且つ真面目ですから。去年スキーに行った結果は、要するにああいうスポーツのやりかた[#「やりかた」に傍点]は、有暇青年風だという警戒でした、太郎はマせているから宿やに平気で、それはよしわるしでした。下駄の下へ竹つけて雪をすべったり氷をすべったり、来年の冬は、赤倉なんかへ行かなくていいから、これも安心です。面白いこと思い出しました。わたしの足は、小さいけれど、子供時分ハダシにばかりなっていたし下駄はいたし、幅はひろいの。パリで靴買いに行って英語でものを云っているので、気を許して女売子が大きい声でわる口を云うのよ、ひろがった足してる、って。つまり下品な足だって。それは鞘に入れて育てたのじゃないものね、とわたしはつれに申しました、これは日本語よ、わたしの頭はみ[#「み」に傍点]がつまっているから、台がひろくなくちゃもたないのさ、と。まけ惜しみでもあるが本当でもあります。日本人て、こんなところがあ
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