験でも一見下らなそうな家事のことも本気にかけばやはり自分でしたいの。
四月十日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(絵はがき)〕
四月〓日でも片はじから書いてしま〔数字不明〕小説のテーマなんかずっと心に〔数字不明〕毎日それについて考えているのはたのしみです。
〔二、三字不明〕云ったことは何か新鮮なものを自分のなかに生んでいて、それは生活環境が目白とちがうことと結びついて、やっぱり一つの新しい面を自分のうちにひらきつつあるのを感じます。
四月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(京都三千院の写真絵はがき)〕
ふと思い出してかきます。着物のこと栄さんでわかるようにしておくというのは、もしここが灰になって私は役に立たなくなったとき、当座たのめるようにしておくということで、今から日常的に助けて貰うというのではありませんからお送りかえしのものはここへ願います。念のために。寿江子が何だか混同したように云っていたから。
四月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(中村彝筆「エロシェンコ像」の絵はがき)〕
今朝は何とこころもちのよい目ざめだったでしょう。湯上りのようでした。思っていたあなたのお顔と一寸見ちがえるようにかっちりと厚みが出ていらして本当にうれしゅうございました、よかったわね。うちのひとは夕飯に赤飯をたいて私のよろこびを祝ってくれました。
お手紙けさ着。大して疲れないらしいけれど昨夜は一寸苦しい位こたえたから今日は自重して、ほんの一筆。
四月二十四日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
四月二十三日
十九日のお手紙二十一日に頂きました。細々とありがとう。よくその気持でいそがず、着実に、永くなってもいらつかないでやってゆきます。どうぞ御安心下さい。これがこの頃の原稿用紙よ。私のこれ迄のは赤いケイで、それはひどく目にチラつくからこの色のをさがしたら松やで、こうです。一番細い万年筆で軽く書いてそれでこれ丈しみるのよ。毛筆の方がよいのでしょうが。
今週は昨木曜日に出かけ来週は水曜日です。こんどはやや人並の話対手で、余程ましです。疲れかたが単純なのは大助りです。それに、そちらへ行くこともかまわないのだそうで、只私の体の疲労とにらみ合わせ、初めは大事をとってあしたもがまんして家に居ります。来週は或は金曜ごろ出かけられるかもしれません。きょうは疲れてマクマクのレロレロよ。家中にいるのは寿江子と私と台所の一人と書生。国男、太郎はみんなかあさん[#「かあさん」に傍点]のところへ。実に久しぶりのしずけさで若葉の色をしんから眺めるような気持です。たのしみなことも出来たし、きょうはいい心持で、どうぞおよろこび下さい。一ヵ月に一度でも私がゆければ寿江子は上りません。あのひとはこの頃体の工合がわるく、やせて閉口して居ります。糖は営養がすこしあやしくなると因果と糖が出るようになり、それで益※[#二の字点、1−2−22]営養は不良となるという堂々めぐりです。来週あたり国府津へゆくでしょう。
ああちゃんと子供は月曜の雨の中を出てゆきました。よほど重荷が整理された感じです。咲枝がサービス疲れのようなのもあちらならなんと云ってもやすまりましょうから。国もドメスティックな人なので細君がいないと何となく悄気《しょげ》ていて気の毒よ。自分の考えたことで安心はしながらも。この間二度つづけて永い力作をさしあげたら、何だか当分ぎっしりとつまった手紙かく根気がぬけて居ります。でも、あの手紙をかいたおかげで今私の気分はいろいろさっぱりと落付き、一層深い信頼に充たされていていい状態でうれしゅうございます、本当にありがとう。では、大抵来週の金曜頃に。こんなに力をぬいてサラリと書いてさえこんなにしみる紙にGは迚も使えず。ほり込むように一字一字を書いてゆく愉快さもないというわけです。一工夫しなければなりますまい。
五月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
きのうきょうの風のつよいことどうでしょう。けさまだすがすがしい朝の庭に、赤いつつじが咲いて楓の葉が青々とした下へ、三羽のつぐみが遊びに来ているのを見て大変奇麗だと思いました。少年時代に小鳥とりなどなさらなかって? 裏日本の方ではみんなやるようですね、つぐみはやや大きい黒っぽい鳥で、その色は単調に赤いつつじの色とよく似合って、ああこんな景色もあるかと感じました。
三十日のお手紙日曜日に頂きました。早速返事書きたかったけれども先週は疲れ月曜の疲労を予算に入れてのばしていたら、その日が一日ずって昨日となり、又明日があり結局きょうとなってやっぱりいくらかへばりの日にかくことになりました。
もう私の心持では、大きい字を巻紙につらねたような手紙ではたんのうせず、しかもこの位の字は相当の事業故、板ばさみで些か閉口です。本当に眼も永いことね、こんな字にしろ半分はカンで、長年の馴れでかくようなもので白い紙にゴミが散らばったような感じね。
すっかり初夏となりました。夜のかけものがいつの間にかあつすぎて、すこし汗ばむような工合になるのも五月という気候の風情です。段々病気もゆるやかになって体のまるみもついて来て、自分で新しくそれを感覚するようなときの初夏には、云うに云えない若やかなものがあって面白い感情です。自然のうつりかわりが実に生々と新鮮によろこばしく映って。
でも、二三度外へ出てみると、このあしかけ二年ほどの間にいろいろ世の中の様子が変化したのを感じます。それも沁々と感じます。日本の人は万事にゆきとどくという美点をもっているのでしょうね、しかし大まかさにも自然のゆとりがあって人間らしいふくらみがある筈です。ゆき届きすぎて非人間めくのは、利口馬鹿のやりてな女ばかりでもない様子です。
こないだうち珍しいから目をみはって歩いたけれど、もとのように思い設けぬ飾窓に、びっくりするほど美事な蘭の蕾の飾られてあるのや、それが珠のように輝いたりする眺めは見当りませんでした。そちらへ差入れの花も払底な時だから、きっとそういうどちらかと云うと贅沢な美観は街からもかくれているのでしょう。
でも、どこかでそれはやはり美しく立派で、蕾から花と開き又新らしく萌えたつ豊かな循環を営んでいるにちがいありません。私は全く花や木がすきよ。本当にすきよ。瀟洒《しょうしゃ》としてしかもつきぬしおり[#「しおり」に傍点]のある若木の姿など、新緑など、その茂みの中に顔を埋めたいと思います。今うちの門から玄関にゆく間のあの細い道は溢れる緑と白い花です。どうだん[#「どうだん」に傍点]という木は今頃若葉と白い鈴のような花をいっぱいにつけます。樹の美しさを話すのも久しぶりのように思われます。
本と足袋明日お送りします。
昨夜ふと気になったらえらく心配になりましたが、あなたの冬羽織、下着、どてら、毛のジャケツ一組等はどこにあるでしょう。まだお下げにならなかったの? この間はボーとしていて冬の着物一つもらってかえったけれども、考えてみると羽織その他大事なものどもは、どうなっているかと、女房らしく気が揉めはじめました。どうぞ御返事下さい。『廿日鼠』は私も面白いと思いました。あの小さい方の男が、気やすめとはっきり知って気休めを云っているところ、しかし大男や黒坊や掃除夫は、シニカルな気持の半面で真実それにひかれているところなど、ヒューメンな味が感傷でなく在って、あの一束の人たちの作品の特質は主としてそのところに在ると思われます。彼は物理と生物学の勉強をしているそうです。文学からそちらにゆくのは、そちらから文学に来るのと全然違うというのは本当で面白いことです。科学と法則を、彼のような作家が学びたいと感じるのも分るし、『廿日鼠』の大男のような自然力を感じる作者が生物学というところに立ちよるのも判ります。それが過程になるか終点になるかということで、彼の文学の可能も亦かわって来るわけでしょう。
オニールのようにあっちにはああいう自然力を人間の運命のうちにつよく感じる作家が出るのね。ロンドンやホイットマンもそうですし。新しい生活力が、或ときは悲劇的に横溢するからでしょうか。
『文芸』は六十数頁の小冊子となりました。苦心して編輯していますが、作家は二十枚とまとまったものをのせ得ていません。多くの課題がこの一つの現象のうちに語られていて、作家がジャーナリズムの刺戟で仕事して来た習慣への痛烈な報復がひそんでいます。
どんな人も従来の1/6ぐらいの収入でしょう。プルタークはもう忘れています。クレオパトラの引力史[#「引力史」に傍点]という表現は笑えました。ショウは利口なようで浅薄な爺さんね。クレオパトラの鼻がもうどれだけ低かったら世界史は変ったと云って、どんな猪口才にも記憶されましたが、クレオパトラがそれをきいたら、ジロリとショウに流眄をくれてニヤリとして黙っているでしょう。鼻の高さひくさぐらいクレオパトラの本体に何のかかわりがあるでしょう。彼女はおそらく女性中の女性だったのです。ナイルをみなぎらす太陽にはぐくまれ、あたためられ、そしてそれを装飾して表現する立場をもっていたのです。装飾に眩惑されるぐらい英雄たちは或面魯鈍であり、自然の魅力に抵抗しかねたほど素朴でもあったわけでしょう。それにあの連中はみんな派手ずきな連中だったからね。どんな時代にも派手好きな人間というものの共通に担うめぐり合せはあるものです、プルターク先生はそこ迄見とおしたでしょうか。随分変転を重ねて其は現われる、例えばレオン先生の晩年のなりゆきの如く。
私は目下のところは余力なしで、ここに居すわりです。寿江子は来週海岸にゆきます。彼女は大変緊張して暮しているから却って私ものんびりするかもしれません、では又ね。
五月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(西芳寺の写真絵はがき)〕
きょうは七十九度ありました。暑くて苦しいほどだから、セルが未着でおこまりでしょうと思います。何とガタガタな一日だったでしょう。咲枝が出京して午後の短い時間に思いもかけず見つかった乳母をきめたりして四時すぎ嵐のひくように太郎をつれて行きました。私は半分ボーとして机のところで息を入れているところ。この細かい字は何とかいてあるのでしょうね。
五月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(庫田※[#「綴−糸」、第4水準2−3−63]「松林」の絵はがき)〕
きょうは八十一度になりました。五月初旬にこんな暑さということがあったでしょうか。明日は月曜日で出かけるから、せめて少しは涼しくなれと思って居ります、いそぎ紺ガスリお送りします。
この松は不自然と皆が云うが、私には昔の野原の海辺へ出る手前の道が思い出されます、きっとあなたもそうでしょう? 木の枝に蛇を下げた男の子がこんな松の間の道を歩いていました。
五月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(石井柏亭筆「佐野瀑図」の絵はがき)〕
五月九日
『万葉秀歌』はもう夙《とっく》についていなければならないのに、うちにゴロゴロしていて本当に御免下さい。上巻はいいのだが下巻にしるししてしまって消してからでなくては駄目でついのびてしまいました。やっと人手がすこし出来、これからは何となし少し楽になるでしょう。この頃の生活から、私は又先頃は知らなかった修業をして面白く感じることが多くあります。働いたことのない人々の人生とは何と嵩ばっているのでしょうね。
五月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
五月十五日
十日づけのお手紙十三日(木)頂きました。くたびれて、クタクタになってかえって来てお茶を呑もうとしてサイドボードのところを見たら、ちゃんとたてかけてありました。思わずこれはいい、これはいい、と申しました。いつもかえって来るときはペンさんの腕に半分ぶら下りよ。そしてお茶をのみパンをがつがつとたべて、二階へ上り坐布団の上に毛布をかけてゴロリとして夕飯までうとうととします。そうするとすっか
前へ
次へ
全44ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング