い黒い手で猿に借金もかき集めさせるという有様です。そうして人間らしさはいつしか急降下しつつあります。あなたが、どんなときにも、私に人間のまともさだけを求め、便宜や好都合のために私の動くことをちっとも予想もしていらっしゃらないということは、こういう時勢の中で、全くおどろくべきことであると深く思います。自分がそういう醇厚なこころのうちにおかれてあるということについて、私は謙遜になります。そして、それがわかっているようでわかっていなかったようなところをさとります。そのために、下らないことでさっぱりしない気持におさせし、話の底がわからないという感じをもたせ、すみませんでした。これは、私の安手なところから起っていることで、私にそういうところがあるということについて悲しく思います。自分が、あんこ[#「あんこ」に傍点]で云えば飛切り上等というところまで火が入ってねりがきいていず、ざらついたり水っぽかったりして、それを味わうとき、あなたの胸の内側はいやな思いでしょう。人間の資質は何というおどろくべき等差をもっているでしょう。人間の立派さというものの立派さは、それを理解する能力はもって生れたものでも、その能力が直ちにその立派さと等しいものではないという厳然とした堰があります。杉は愛すべき樹ですが檜ではありません。杉が自身の杉のねうちと分限を学び、檜の美しさ、まじりけない立派さを知ったとき、杉はこの地上のゆたかさにどんなに心をうたれるでしょう。その立派さを見あげ感動することの出来たよろこびを感じましょう。だがその身内を流れる涙があるでしょう。檜に生れて見たかったとは思わないでしょうか。傲慢な希望ではなく、生れるならよりよきものと存在したいという希いから。深い幸福感と感謝と悲しみとが一つ心の中にあります。
十三年に、生活に対する態度のこととして、こまこましたものを処分するようにということでした。そして一部そうしました。当時の生活の必要もあって。そのとき自分たちの生活の条件の不安定なことを考え、私がいないときどうであったかを考え合わせ、私がいなくてもいくらかでもゆうづう[#「ゆうづう」に傍点]するものがありさえしたら、それを送ったりするだけの親切はうちのものも持っているだろうと思いました。十三年には書けなくて困却した年です。当時国男は今日ほど物がわからなくて、私たちの生活を一つのものとして考えることが出来ず、私のためは即ちあなたのためとは思えず、数々不快な問答がくりかえされました。あの節建築の方は今日のような統制による窮迫をうけていなかったから、私の不自由も我が身からの酔狂と見ていました。私はつくづく不安心で、自分がいなくなりでもしたら、二人はどんな思いをすることかと思い、そのために全く些少の足場だが一方だけ即刻処分は出来ませんでした。そのことをすっかりあなたにお話しすべきでした。ところが、あのときは、生活の態度という点で、一つもあまさずというお話で、それは私にあなたがこまかいいやな事情を御存知ないからだと思えました。一々そんなことを話しても、私が感情的になっているか、さもなければ自分の何かつかまるものがないと心細いという習慣風な気分の理屈づけとおききになるだろうと思えました。おそらくそんな印象をおうけになり、そんな風にとれるようにおっしゃったことがあったのは、寧ろ私が簡明に生活の条件をお話ししなかったからのことであったでしょう。
私たちは家事的な話しなどをゆっくり永年相談しあって暮して来たというのではなくて、そういう話があなたから出たときは、私にとって何か絶対のこととうけただけの癖で、それが変った事情のなかに移っても私にのこって、あなたにとって笑止な遠慮、卑屈さになったと思います。平常はそれをそちらの分の土台としてやっていて、一昨年の十二月から昨年八月までは、実業之日本、筑摩書店から印税の前借をしたのと、十三年に翻訳したその収入と合わせ、やりくりました。もう何ヵ月ぶんしかないというのは事実であったわけです。寿江子はそういうやりかたに馴れないものだから、私もかなり語調でおどかされたりしましたが。
八月末医者の払いをしたら、それこれがおてっぱらいとなり、国男さんの方の事情としては月々医療費を立て替えることも困難だというから、いろいろ考えた末、百ヶだけ担保として、それで流通をつけてゆくうちに、私の体もいくらかましとなって、少しの収入があればよしということにしました。
あなたにもすっかりわかっていることでなかったのは悪うございました。しかし、ともかくもこうやって最も体も弱った時期を何とかきりまわして行けたのはよかったと思って居ります。
ここまで書いたら一日づけのお手紙が来ました。そしてこの前、あなたの不自由なさった前後のことがあるので補足いたします。あの時分は父が生きていて、私は母ののこしたものを自分で自由に出来ず、又どの位あるものかも知りませんでした。母の亡くなったとき父が三人を呼んで、母ののこしたものは子供たちに等分するが、一番能力のない寿江子と、いろいろ責任もある国男にやや多くして、自分の存命中は自分が保管してその収入も自分で自由にするから承知しているように、とのことでした。だから私が牛込居住のころは、私の方も全くお仕きせで、私は二人分だからと自分も随分きりつめて暮したものでした。十月に栄さんから行ってそれきりだったということは、はばかるとかはばからないとかいうことより、私にも分らないけれど、単純にあなたがまあいいとおっしゃればいいんだろうぐらいのことでいたのではなかったでしょうか。あの時分は考えるとひどかったことね。一ヵ月に一度ぐらい咲枝が一寸来てウワウワと何かきいて、あなたの方大丈夫かと念を押すといつも大丈夫よちゃんとしている、と云って、それで帰ってみればそういうことだったのですものね。あの頃は咲枝夫婦は部屋住みの無責任さがあり、寿江子はこちらのことなどかまっていず、今度とは本当に比較になりませんでした。
父が急逝し、国男は俄に家と事務所を背負ってすっかり神経質になり、寿江子も境遇の激変から妙になって、兄を不信し、そんなこんなで私は帰ってからも相当でした。あなたとしては、うちのものに対しては、まあ何とかするからと仰言るのは分っているが、しかしというとこまでは決して心の歩み出さない人々だということを痛感し、それで、父の死後私の名儀のものが自分のものとなったとき、全部手ばなして又あのあいまいな、わけのわからないいやな思いをしたくないと思ったわけでした。
必要な場合役にも立てないで、つくねておくようなら持たないにしくはないと、あなたはお思いにもなったのでしょうね。私は自分があんなにつめて心配していたのに、うちの連中は何ていう底ぬけかと思う心がつよくて、時期のくいちがいを御承知なかったあなたの方で、そんなものがあったのならとお思いにもなっただろう事情を心持として分らず、黙ってのこしておくこととなって、行きちがいをおこしたのでした。
考えてみると、暮しのやりかたが本当に拙劣であったと思います。しかし前の時は私はやっと原稿料で生活していただけで、その日ぐらしで、自分のいなくなったときの考慮まで出来ていなくて残念なことでした。今度は、招かざるお迎えが来たとき、すぐ寿江子にどこからどういうものをとってどうしてとたのみ、それがすぐ分るだけ大人になっていてくれてましでした。
こちらの生活はなかなか入費がかかります。四倍の入費ということはここにいても同じにひびいて、家へわたす分、雇人の心づけ。ペンさんの月給、本代、薬代、吉凶その他の臨時で、お送りする三倍四倍になります。自分が病気のため知人が心配していろいろ送ってくれれば、やはりそのままにはすまずですし。それもやや一段落の形ですから、その範囲で暮せる温泉へゆきもう一息、この眼のチラチラも直し、疲れやすさも直したく思います。やっとこの位の字がかけてみると、眼のチラチラは却って一層苦痛です、スーッと楽にはっきりすきとおって見えたらどんなにさっぱりするでしょうと思って。一日に二時間でもいいからね。もし温泉にゆくとしてペンさんにはやはり一週一度来てもらって二人の本さがしの用事、送る用事、その他事務上のことをして貰います。現在、うちの人たちは皆半病人で、寿江子はこの間私の為に自分の健康までそこね、それで今も苦しむのは自分だけだという心持があって、そちらにお目にかかりにゆくだけで精々ですから。柄にないことはするもんじゃないと思ったそうです。そんな気持も亦時がたてば自然に戻るのでしょうが。こんな体で自分の勉強さえ出来ないのにと云っていて、私も気の毒だし心苦しいし、それで万一の場合私に代って事務的なことを計らってもらう人として、てっちゃんにたのんだのでした。家族的にももう知りあっていますし、順序がついていて、それを取計らうだけならいいと思って。五日ごろ寿江子が上ります。私はその二三日後に上りたく思って居りましたが、この手紙すっかりよんで頂いて、いろいろのことが分明して、私のわるかったことは悪かったとして、ともかくさっぱりして頂き、まあ来たらよかろうというお気持の向いた上で行きたいと思います。一心に、おぼろおぼろの眼を張って、私はおめにかかりたくて行くのだから、そして、あのほんの短い時間のうちに、ゴタゴタしたことは何も話せず、話せば中途半端でいかにも苦しいのだから、この一まとめの話がすんでからにいたしましょう。これは何日ごろ着くでしょう、長くてさぞ手間がかかることでしょう。早く来てよいと云っていただきたいと思います。
四月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(ゴッホ筆「アルプスへの道」3ノ一、三岸節子筆「室内」3ノ二、土本ふみ筆「垣」3の三の絵はがき)〕
(3ノ一)隆治さんがジャ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へうつりました。そのハガキ貰って、大事にしてしまったら、仕舞いなくしてへこたれです。どうも見当りません。そちらへ来たらどうぞお教え下さいまし。送ったものはみんな行きちがいね。果して届くものかどうか。岩波の小辞典をお送りしました。『秀歌』は田舎へもってゆく分として一括したものの中にあり、そのうちとり出してお送りしましょう。なくしてハ居りませんから。少し勉強しようと思って大事にしてあります。
(この空の色はもっと濃く深く、糸杉はもっと厚い黒っぽいいい色だそうです)
(3ノ二)この人の絵をほかにおめにかけましたろうか。いつも大作を描き、いつもこういう更紗ばりのような展覧会エフェクトの多い画面です。絵のどういう面白さをここに出そうとするのかといつも思われます。婦人画家中の才人です。マチスまがいから段々堕しています。文学では模倣はたやすく見破られるが日本の洋画というものは音楽同様にまだ模倣に寛大な時代なのでしょうか。
(3ノ三)浅春の雪のすがすがしさと柔らかさを描こうとしたらしい絵で版がわるいから垣のむこうがゴタゴタして残念です。今まで知らなかった女性の絵です。この雪の下には砂地がありそうな感じですね。ぬかるまないような。ペンさんが奈良の旅行からかえり、寿江子国男国府津からかえり又ガヤガヤになりました。戸塚のおばあさんが死にました。手紙一つお見舞一つもらわなくて、そちらの事だけ「あらかじめ知らせ」られたりして、少しおどろきました。
四月八日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(はがき)〕
あしたの金曜日に出かけられると思って居りましたが、雨つづきで下稽古が出来なかったから、火曜日になります。どうぞそのおつもりで。
四月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(木下克巳筆「夏の夜」の絵はがき)〕
四月九日
この頃いろいろと書きたくなって来ました。口で云ってかいて貰うというのではなくて。そうすると体力がまだそこまで行っていないことを沁々と感じ、ああまだ辛棒しなければと思います。結局口に出して書いてもらうということには随分限度があるものね。去年の秋から今日までの私たちの経
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