資材関係その他ですが、そちらも御自分用の防毒面はおありになろうとも思えません。うちにもありません。子供用のものは土台ないそうです。黄燐焼夷弾の煙は、十分位は人体に害なし、だそうですが、重曹のとかした液を浸した手拭いを口にあてておくと、幾分粘膜の傷つくことを防げるそうですが、その重曹が手に入りにくうございます。塩の濃い溶液にタオルのようなものを浸し、それをよくしませて、口、鼻にあて、眼をよくつぶっていれば何もしないよりはましでしょう。燐の煙は猫いらず的作用ですから、困るわね。
今年は夏になっても、冬用の夜具類を手許に置いていただきましょう。ガラスの飛び散るのやいろいろは厚い夜具をかぶればいくらかいいし、煙も掛布団の裾がたたみに密着するように、しかも空気がなるたけあるように、ふところを大きくしてかぶれば、むきだしよりもいいでしょう。
冬のかかりになって、あまり寒くならないうちとり変えるものは変えましょう。
シーツはそちらに代りがあるでしょうか。いずれ、一枚お送りいたします。シーツが大変なのよ、なくて。
取越し苦労とお笑いになるかも知れないけれども、備えあれば憂なし、と、あなたが教えて下さいました。
三月二十二日
三月三十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
三月二十九日
二十七日づけのお手紙頂きました。ポツポツと又つづけてかかなくてはならないから今日から始めましょう。
隆治さんの語学の本は、『馬来《マライ》語四週間』と文京社、大学書林のとがなかったので、前に買えた会話手引と日泰馬来英対照の字引だけさし当り送りました。初めこしらえた小包には、文庫の『マノン・レスコオ』、『カルメン』と徳川時代にカムチャツカまで漂流しておどろくべき沈勇で善処して来た船頭重吉の太平洋漂流記というのが非常に面白く立派だったので、それを入れ、お茶、薬なども入れました。本だけを、ではすぐ送ります。重吉の話はやはりあちらでもどんなにか面白いでしょうと思います。まるで幼稚な方法で航海していなければならなかった時代にでも、重吉のような人物がいたということは愉快ですから。
第一書房の『プルターク』のこと承知しました。この頃は古本をみんなが大事にして、すこしましなのは出ないから、『風と共に去りぬ』のような、一時はいやな程溢れていた本が、今ではあんなにあちこちにたのんでさえ、やっと一冊手に入るという次第で心細いものです。改造の営養読本、この前ガタガタ本を整理したとき、まざり込んでなくなっているのだと思います。私のいない間に二百冊ほど手放したし。あとから昨年買った日本評論社版のはあります。改造のは薄黄色の表紙でしたが。ほかのひとの本を一緒になくしては居りませんから、それは大丈夫です。
私の体も段々癒って来るにつけ、癒る過程に起って来るいろいろな様子をみて、我ながらひどかったことを感じなおしている風です。字はかく方は、どうしても自分で書かなければならないとなると、この位はかけるようになりました。チラチラマクマクをとおしてですが。春になって変化が激しい故かちょいちょい故障が出て居りますし、実際眩しくて外を歩きにくいけれどもしずかな気まかせに歩ける田舎の木下道でも、のんきに歩けたら、体全体の調子がぐっとましになって、秋までには眼もいくらかよくなるのではなかろうかと思います。ペーヴしてある道は真白くハレーションして閉口だし、混雑はこの頃言語道断だし、空からの到来物のことだけでなしに、田舎へゆきたい心持です。後者のことは物を書く人間に生れて来て、東京がそういう経験をするとき、そこから静安だけを求めて、どこへか行きたいという気はありません。まして動けるのは一人だという場合。自分だけがどこかに行くということを考えると寧ろ渋ってしまうのよ。しかし、ここでの生活は、なかなか複雑で、私の神経が相当いためられます。寿江子という人は大変特別だから、私がこの二三日のように工合わるくして床にいたりするときは優しく親切だが、すこし元気よくなっているときは実に鋭い反撥を示し、癒ってゆくもの、そして着々仕事も進みそうな者への反感をきわめて意地わるく示します、自分は決して快癒はしない病をもって生きているのが重荷なのだ、ということで。こんなに大筋をかいても一寸おわかりになりにくいでしょうし、又いい気持もなさらないでしょうが、それは冷熱こもごもの感じで、まだすっかり丈夫になっていない私には苦しいことなの。咲枝が腎臓をわるくしていて(泰子の過労から)先日も伊豆の温泉にゆき、明後日ごろから国府津へ子供づれでゆきます。自然太郎の責任は私が負うこととなり、お産の留守番以来かなりもう沢山にもなっています。私は今迄は動きたくても駄目だったから。こうしていて月々にかかっている費用にいくらか足して山へゆけたらと考えている次第です。一日五六円のところを物色していて、十三年に行った信州の上林のせきやを問い合わせ中です。これとてもあなたが東京をはなれたって意味ないとお考えなら、ひとりできめて意気ごんでいるわけでもないのです。七時間位の汽車は外景を余り見ないようにしていたら大丈夫そうに思えているのだけれど。誰か送ってだけ来てくれたらば。
今度のことは、大東亜戦になったらばとリストがあって、それにより二千人近くだった由です。元のときすぐ保護観察というのに附せられ、最初の係が毛利という警視庁から行った人でした。いろいろのいきさつから私への点はからいと見えて、私の態度が私にはよくわからない理由でよろしくないという書きつけが出来上り、書類はひきつぐし一昨年七月頃一寸別のかかりの検事のひとと論判めいたことがあり、リストは消されず十二月となったわけです。検束で二ヵ月いて、この頃は検事拘留で一月三十日に拘留がつき、三月まで『明日への精神』のなかにある山本有三論の字句、スメドレイのことをかいた文章のことなどでぐるぐるまわりの話があって三月に入り、うちのものが私の健康のことを心配して出かけたりしたことがありました。そしたらすぐそちらに廻り、一ヵ月余音沙汰なしで、話は又同じ題目で、どうしても私は一定の主義に立って物をかいていると云われ、そういうわけでないという常識論は通じませんでした。そのうちかかりの検事が見えましたから、私は自分に要求されている返答がどうもしっくりしないで困ること、しかしそれをそうでないということが即ちとがむべきことというのでは当惑すること、書いたものの実際についてよめばひろい観点でかいていることがわかる筈と話しました。検事はおだやかな判断で、私が書いたというために色眼鏡で見ているところもあり、私という人間を特別な先入観で名から見ているところもあり、気の毒だと思うところもあるが、作品はところどころ難点がある、という話でした。しかしグループをもって活動しているわけでも組織をもってそれに属しているのでもない人間が治維法にふれることはないという話でした。
それから暫くして聴取書がこしらえられはじめ、手記にかいたような経歴などのところで私がひっくりかえってしまったのでした。手記にかくこともないから手記もありませんでした。聴きとりが終れば病気にならなくてもそれで帰れるわけでしたと思います。「カテキズム」ですから話にのぼった作品の箇所へでもゆけば誰のかいたどういうものかと思うような字句であったろうと思います。検事が私の病気を知ったときすぐ執行停止にするからもうゆっくり静養しろということだったそうです。この検事はどこかの軍政官に転じ、本庁の係だった河野という人も南方へ行ったとかいうことです。それきりでずっと何の沙汰もなく、臨床の訊問もなく、検事拘留一ヵ年の一月が過ぎ、二月下旬に駒込の特高の人が来た時、私は自分がどうなっているのか判らないけれどもと質《たず》ねたら、もうこのままでいいんでしょうということでした。旅行に出るなら自分の方へ一寸知らせてくれればそれでよろしいとのことでした。検事局へ届けたり何かは不要とのことでしたから、これで一応落着し手を切れたものと理解しているわけです。
忌憚にふれるものを強いてかこうともしているわけでなし、私がものを書いてゆくことは原則としていけないというわけではないのです。『茂吉ノート』は著者が同じ頃からいろいろとごたついた最中に出版されたのですし、本年に入って新版を出しました。自分としては社会時評や女性生活問題はむずかしいから、古典作品の研究、たとえば明治以来の婦人作家研究をもっとさかのぼり、それをまとめたりする仕事はよいだろうし、文学美術に関する随想はいいのでしょうし、小説は今度も一つも問題になったのはないのですから、小説も段々かきたいし、と考えているわけです。経済的な点で、勿論書くもので儲かろうとは思えず、出版部数も多くはなく不便はつづくでしょうが、全く可能のないものとしなくてもいいのではないでしょうか。隆々と活動するというアブノーマルなことを考えず、芸術の領野で地味に手がたく勉強して、それがいくらかの収入にもなるということはあり得るでしょうと考えますがどうでしょう。そういう風に考えて行って作家としては自然でないでしょうか。ろれつ[#「ろれつ」に傍点]がよくまわらないから大勢の人前で喋ったり坐談会などは本当に不可能ですし、あれこれの旅行も不可能なのですし。もっとも、そろそろ書けるようになったとき、又何がどうなって来るか、それによってどんなに状況が変るかはそのときのことですが。
私の養生ぶりがしゃんとしていなかったということ、そして話とちがったというところ、悲しく、何度もくり返し拝見しました。私はそのちがいの間にこめられている事情を察していただけると思い、よかったと思っていたのでした。ちがいを説明しにくく、自分の気持だけ言い、二つを並べて客観的にお話出来なかったのは悪うございました。客観的な事情というものはわかっているのだから、二つをはっきり並べて話せなかったのが私のしゃんとしなかったところであったと考えます。
自分の健康にほんとうに自信があるならば、病状についても平静に、さけがたい腫物はどう出来ているか、を話した筈ですから。御免なさい。私は骨髄癆になっていない自分をつたえたくて一方の事実を糊塗したようになり、そういう作家としても強靭さの不足したような、眼光の透らないようなところ不快にお思いになったのは当然であり、すまないことでした。私は子供らしかったと思います。自分の告げたいことだけを息せききって喋るように。話したい方からだけ、話しいい方からだけ話すというのも、態度としてはなっていないことだし、リアリスティックでなくて。本当に私たちの生活で、私はいつも平静な現実的な勇気をもっていなければならないと思います。余り長くなるといけないからここまでで一区切。今寿江子はコウヅ。ペンさんは旅行で、一切書きかたは中止中です。
四月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
次の日かきつづけるつもりであすこ迄かいたら、三日休業になってしまいました。きょうはすっかり春めいて太郎は庭で土いじり。白木蓮の花がさき丁字の花がにおって私は久しぶりに外へ出て柔かい庭の土を歩きました。昔秋、田町の道の上でかぶっていた白いパナマの古帽子を日よけにかぶって。この頃は、でも、疲れると何も出来なくなり、おとなしく床にころがっていられるようになったから自分でも安心です。
横になってゆっくりとあれやこれやお手紙について考えて、臥たのも大変よかったと思って居ります。あなたがああ云って下さることのうれしさがしんから湧いて来て、段々仕合せを感じ、すがすがしいような健やかな流れを身のまわりに感じます。この節はどこもバタバタ暮しです。そして人と人とのいきさつは、互の好都合というところで廻転して、その点ではいつかいやにわかりがよからざるを得ないようになって、夫も妻も、一寸山内一豊の妻めいた才覚が働くと、一も二もなくそれに兜をぬいでしまうし、ひどいのは猿まわしの猿つかいのようになり、小さ
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