ももっているわけです。どんどんと気持よくつよい歯をたてて勉強してゆくような気魄ある人物を見たいものです。
 紙がつまってしまったから、又つづきは別に。

 十一月二十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十一月二十二日
 もう手紙に白い紙を使うということは出来ないのかもしれませんね、文具やに封筒はあるけれども帖面も書簡箋も何もなしとなりました。「幻滅」に、製紙上の発明をする男が登場します。十九世紀に入ってから今日までどんどんと発展したっぷりつかわれた紙が、今又おそらく世界中で窮屈になっているのは大したことです。前大戦で紙の不自由したのはドイツ、フランスにロシアぐらいのものでしたろうね。
 中央公論も『婦公』七割五分削減、『文芸』八割とか。毎日会議会議の由です。
 きょうは、防空演習第一日で豊島、瀧ノ川、板橋その他、明日は林町の方。もんぺ姿でテコテコと出かけ、時間も考えたつもりでしたが、結局二時から三時すぎまで前で待避して、それで帰らなくてはなりませんでした。豊島は第一区なのね、これから防空演習のときは、そちらのときもやめましょう、つまりは待ち損となりますから。段々こんな場合が殖えますね、二十七日が金曜で総合訓練。このときは発令と同時に電車もとまり、壕へ待避しなくてはならないから、わたしは引こんでいとうございます。そうすると月曜ね、さぞこむことでしょう。
 ふとん衿の白い布送りました。『幻滅』と一緒に。バルザックという作家は面白いのね。関係をとことん迄発展させ書こうとするために、登場する人物はどれも原型的ならざるを得ないのね、そこが現代の人間の生きかたにない現実なので――今の時代の人間は、よくてもわるくてもバルザックの主人公たちのように一途ではないから、もっともっとカメレオン式であるから――きらいな作家という印象を与えるのですね、そのいきさつが今度よくよんでみてはじめてわかりました。だからバルザックの限界というものもよく分ったわ。彼の作品の世界では、利害と権謀とが徹底的に跳梁しなくてはいけないから、人間は、だます人間は飽くまでだまし、だまされる人間はあく迄だまされるという可能が許されなくてはならないわけなのでしょう。そこがディケンズとのちがいね。「クリスマス・カロール」なんて、バルザックはきっと鼻の頭にしわをよせたきり黙っているでしょう。
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〔欄外に〕
 作中人物が典型であるということと原型ということとはちがうということを感じます。大ざっぱに同じように云いならわされて来ていましたね。
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 そして、彼がナポレオン以後のくされ切ったフランスの膿汁を突き出しながら、やはり時代の下らなさをうけていて、「幻滅」のダヴィドとエーヴという善人たちはつまり平凡な金利生活に封鎖してしまっています。エーヴは、賢くも夫ダヴィッドを、発明というあぶない仕事から遠ざけることに成功した、のだそうです。
 この作家の偉大さは、人間の関係をえぐったところにあり、限界は人間を固定して操っているところにあります、人間は進むということは分らなかったのね、利害そのものの本質が変り得るということが分らなかったのね、利害というものを、権力、名誉、金銭だけに限って見たところに、この巨人の檻のめが見えます。
 それにしても彼はやはり並々の作家ではありません。卑俗な欲望にわが一生もゆだねてこづきまわされつつ、あれだけ観察し、描破しています、その力は凡庸ではないわ。
 私たちのまわりには卑俗に且つ盛に小刀細工をやって暮している人間たちが少なからずいます、が、彼等は自分の卑しさの一つさえも文学にする力量をもっていません。精神の貧弱さの故の卑小さしかないというのは詰らないことね、野心さえもない卑俗さなど何と下らないでしょう。
 それからね、これは可笑しなスモール・トークの一つですけれどね、フランスの社会で代議士というものがどういうものかということが、「幻滅」を見てよく分ります。第一金がある、それが第一。それから地位がたかい。永年のひどいからくりか地位によって獲得するものです。フェリシタという女のひとが中野秀人という、絵カキ詩人の細君になって、陶器人形のように白く丸くきれいで内容虚無な顔を日本にもって来たのは、そのためだったのね、兄貴は有名な代議士でしたもの。日本の代議士はそういうフランスの慣習的な解釈にあながち適合しなかったのね。
 わたしが茶色の外套をきてベレーをかぶって、クラマールという郊外に下宿していたとき、フェリシタをよく見かけました。
 バルザックをつづけてよみます。これ迄バルザックは私にとってのマッタアホーンのようなもので、頂上はきわめなかったのですもの。古典についていろいろ云われた九年ほど前に、私は自分の幼稚な鍬で力一杯この巨きい泥のかたまりをかっぽったけれど、それはいく分その形成の過程を明らかにしただけで、自分の文学の潜勢力として吸収するところ迄ゆけませんでした。こんどは、かんで、たべて、のみこんで、滋養にしようというのよ、この頃余り滋養分がないからね、バルザックをよみとおせば、どんなに新しい文学は新しい人間生活の領域につき出されているかということが一層明瞭となり、未踏の土地への探険が一層心づよく準備されるというものです。
 先日、わたしがうつけ者のような顔つきになったニュースについても、段々別箇の観かたが出て来ました。世間では、荒い商売をして、負債のどっさり出来た人が破産して、却って自分の財政を立て直すでしょう? あれなのだ、と思いはじめました。あの位きついところのある、そして賢い人は、聰明というものの清澄な洞察はなくても、生きる力のつよい人間としての見とおしと覚悟は出来ているでしょう。内外の紛糾ときがたいから、わが身一つとなったわけでしょう。大したつよ気かもしれないわ。だから、わたしは安心して、その人のやりかたにまかせ、自分はせっせと勉強いたします。
 寿江子が船橋あたりに別居します。小さい一軒をもって。今年中に何とか形をつけるよう国男との間に話があった由で、わたしがきいた家がうまくものになりそうなのです。今一軒もつことは大した仕事ですが、寿は、その方がさっぱり暮せると思っているし、うちの連中は業を煮やしていて、すこし苦労して見れば、その手前勝手は直るだろう、という考えです。
 どちらも、大人子供よ。実に大人子供よ。寿の方は、大人子供のまま、ひねこびて、術策があるから、それのない側が絶えず不快がり、それを感じつつ変な押しで通して来ているから、寿の、わるい社交性みたいなもの、空々しさ、全く悲しいものです。こんなに急速に変るなんて。今は実に消耗的なのね、戦で死ぬ、負傷する、そういうのばかりか、こうして、直接には苦痛を蒙らないように見える部分が、ひどい質の変化を経過いたします。
 Sの方も大した状態です。いつぞや私が思わず、あなたにまで毒気を吹きかけてしまった状態は、根本的には改善されていません。生理的の原因ばかりでなく、生活目的というか、日々の些末なつかれるいそがしさに挫かれて、反撥して、すてて逃げ出したいのね、こういう心理はこわいものだと沁々思いました。良人のため、子供のためにあったような生活の気分がガラリと底ぬけになるのね、自分の生活の根拠があるのではないのですし。ドイツが一九一四―八年の間に全くデカダンスに陥ったという小規模の心理的見本です。苦痛や困難を背中や肩で支えて来たことのない人間のまことに脆い場合です。
 同情よりもよく話し合い、処置を自分で自分に見出させなければならない時期です。わたしはこまかく心持の分析を話してやります。彼女は寿よりずっと正直で、真率ですから(今)自分の気持を一つ一つ照らして理解し、考えます。そこまでやって来ているのよ。さて、もう一段厳粛にこの人生というものを感じ直し、うけとり直させねばなりません。良人というものが、この仕事に、何のスケジュールも作り得ないというのは、普通かもしれませんが、何だか夫婦の密接なようで離れている不思議な感じを与えます。良人がいる、子供がいる、でも何の重しにもならない。これは女の或ときのひどい心理ね、それで別の対象なんかないのです。しかし、もし近くにあれば妙な心理の力学みたいなもので傾いて、そっちへ行ってしまうのね、自分というものの生きる目あてのしっかりしない女のひとが、三十五になって、食うに困るところと困らないところとスレスレで、しかし目前の不安はなくて、妙に従来の生活に倦き、新しい力を求めるという気分、良人はもう初老だとか更年期だとか云っている、よく家庭教師なんかが介在して来る。陳腐な筋だが、女がしんからその陳腐さを克服しようとする丈高い趣味がないといつまでも起る条件です。
 いろいろなことが起り、それを判断し、自分の生活の独自さをつかみ日々を一定の方針によって生きてゆくということを益※[#二の字点、1−2−22]私に訓練いたします。文学修業も広汎なものね、昨今そんなわけで、大変緊張した精神状態なのよ、不愉快と云えば其で充満している次第ですから。それと抵抗して自分の机のまわりだけは混乱させないでいるわけです。チェホフがあの自然さ、落付き、科学者らしい洞察(合則性への)で、新しい世代の母胎となったように、私はこの家で、ゆるがぬ石となり、太郎やほかの子やそういうのびゆくもののよりどころ、古い柱も建て代えには土台石がいる、その石となってやろうと考えて居ります。そして、何となしぐらついている柱たちが、うまく根つぎするよう助力してやりたいと思います。
 でも面白いものね、そういう大仕事になると、動物的な絆、親子、夫婦の或面が大したものの役に立たなくなって、もっともっと高い人間らしさ理性による尺度のあてがいかたや処置しか、力とならないというのは。私は其を最近の何年間のうちに学んだわけです。こんなわけで、この頃私の手紙には、ゆるやかなリズムよりも、畳みこんだもの、かすかな苦渋というようなものが流れるわけです。そしてあなたにも人生のほこりをあびせ申すことになります。
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〔欄外に〕
 二十二日(月)そちらの防空演習、二十三日(火)休日、二十四日(水)林町の防空演習、二十五日(木)になります、朝行きます。
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 十一月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十一月二十五日
 二十二日づけのお手紙をありがとうございました。夏以来、いろいろとこまかいことの含まれているお手紙で、うれしく拝見しました。そうね、いつも私のびっくり加減は、あなたに、途方もなく思われる程度ですね、事、あのひとに関すると。何故そうかと考えると、第一の原因は、私として非常に密接な、血肉的な生活の時期と結びついているものだからなのね。一つ一つのこまかい情景さえ、春のある冬、という詩のディテールが私の生活というよりも生存にしみついているとおり、私のこころに刻まれていて、冷静にみられないのよ、多分。そしてそれは、そうだろうと、同情的に同感されるにしろ、大局には、やはりいく分愚かなことなのね。生活の様相の推移というものの苛烈さに対して、未練がましい気持であると申せましょう。あなたが僕にはよく分らないとおっしゃるのは自然ね。そして、自分に親近なものが、程度を超えてとり乱したりするのを見るのは、いい心持でないのも自然です。
 私は、しかしあのひと以前に、自分から友達と思って生活全般で近づいたというひとがなかったでしょう? それも私としては弱点となっていたのでしょうと思います。まさか、仲よしな筈なのに、ひどいわ、という女学生の気でもないのよ。こういう面でも一つの修業をいたしたわけです。すべての修業がそうであるように、一つも甘やかされずに、ね。十分に自身の好意も憎悪も反省も判断もこきつかわれて。その収穫が、友情というものからの収穫であったということを学び、もうさっぱりして居ります。その気持は、前の手紙でかきましたとおり。最後の級
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