から。これは何と謙遜な、若々しい、願望そのものにおいて生新な希望でしょう。それを成就させる根気と体力とを与えたまえ。作家としての立場から云えば、卓抜な評論家にとって十分素材となり得るような作品の系列をもつということは一つのよろこびでなければなりません。作家の義務でさえあるでしょう? 愛する評論家を文学の不毛な曠野にさらすことは出来ません。

 十一月一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(電報)〕

 リンパ センハレテユカレヌユリ

 十一月一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(ブーダン筆「海辺」の絵はがき)〕

 十一月一日。三十日のお手紙ありがとう。きょう(月)電報打ちましたがうまく火曜日につくでしょうか。先週ふとん仕事や何かでずっと用事つづきで暮したら、グリップの再燃で、今度はいいあんばいに熱は七度五分でおさまりましたが、リンパ腺がすっかりはれて氷嚢づかりです。あの位一度血液に毒素を吸収してしまうと、更新がむずかしいものと見えます。細菌に抵抗力のよわい血液になったみたいね。今度は大事をとって、今週すっかりチッ居いたします、御免なさい、くりかえしをやったりして。大いにおとなしくして居ります。

 十一月六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十一月五日(前略)
 きょうの新聞でいよいよ出版整備のことが発表され、「実績」にこだわらず、「性格」で行くこと、今までの形をすっかり変えて、のこるのも統合して、公的な存在となるべきこと、益※[#二の字点、1−2−22]書籍も弾丸であるということをはっきりさせ、二千軒は二百軒以下となるそうです。大観堂のように白水社のように小売やが出版するのは原則としてなくする由です。東京堂、三省堂、その他どうなるわけでしょうね。大したことです。文学者はどうするでしょう、何故なら書籍は弾丸で即ち消耗品であってよいかもしれませんが、文学は消耗品でも破壊力でもありませんから、そういう意味で出る本の内容とはなりがたいというところもあるでしょう。
 繁治さんの勤め先もこのためにどうなるかというわけだそうです。久米正雄が何かの会で「作家は小学教員になるということも真面目に考えている」と話したそうです。文学もこういう時代を経て文弱ならざるものに到達するのでしょう。
 高見順がこの頃『東京新聞』に「東橋新誌」という小説をかいて居ります。このひとはこの頃明治初年のものをよみかえしたと見えて、題からして「柳橋新誌」ばりですし、作者というものを作品の中に登場させ、文体もその時代めいたニュアンスで内容は今日をとってかいて居ります。苦心のあともわかりますけれども、何となし今日の文学というものについて読者に感想を抱かせます。『文芸』の「まだ沈まずや定遠は」とともに。あの演説(今月号)にしろ、明治初期の文学がその未熟な向上性においてもっていた演説口調と、今日のとはまるでちがいますし。文学上の工夫というものが、体のひねりみたいなものになってしまうのは、この作家の著しい特徴ですね、「描写のうしろにねていられない」にしろ。ある敏感さがあります。神経質さがあります。それでくねりくねる。くねる運動は常に前進のみを意味しないというところに悲劇があるのね。あり体に申せば、今日、文学は工夫の域をこえてしまって居ります。工夫で何をかなさんやです。そのことを腹に入れて度胸を据えなければ、文学は文弱なるものに止ってしまうでしょう。もうすこし想像力が豊富だと強壮にもなれるのにね、この頃よくこんなエピソード思い出します。コーカサスの山越えをしようとして、丁度山脈のこちら側の終点をなすウラジカウカアズという町に夜つきました。ホテルは今時珍しい瓦斯燈で、あおい水の中に入ったようなガランとしたホールのところにいたら、フェーディンという作家が来合わせ、明日自分も越すが同行しないか、自動車は六人のりだというのよ。同意して朝玄関へ出たら四人と二人のりとが来ていて、フェーディンの女房が、四人の自分の仲間がわれるのをいやがってゴネるの。すると亭主はさすがに「だってあの人たちは女だよ」と小声でたしなめているのよ、きこえないか分らないと思って。私は大いに不愉快で、このメン鳥の横にのりました。段々山にかかってテレク河をさかのぼり、トルストイが「然しかの山々は」というリズミカルなリフレインで「コーカサス」を描き出したそのテレクをなつかしく眺めて山にさしかかりました。壮大な展望がはじまります。するとフェーディンが「素晴らしい!」と歎息しました。「トルストイ、レルモントフがコーカサスについては書いてしまった」すると女房が紅をつけた唇を動かして一言「やって御覧なさいよ」パプローヴィチェと云うの。私はフェーディンの歎息も女房のはげましもいかにも三文文士くさくて苦笑してのってゆきました。山越えはこの一行のおかげで大半の愉快を失いました。しかし今、あの山道を通るいろいろの動きをまざまざと思いやると尽きぬ感興があります。
 私たちがのっている船は、あの晩夏の黒海のきらめく碧さと潮風にふかれてのどかでした。クリミヤにしろ、そこに咲く百日紅の色を知っています。ノガイの草地では、馬乳が療養上有名です。そのノガイに今日では歴史の物語がくりひろげられているわけです。ノガイと云えばトルストイの時代にはその遊牧民の天幕小舎しか考えられなかったのよ。それ以上のロマンティシズムはあり得なかったのです、エクゾチシズム以上のロマンスは。今日景観は何と雄渾でしょう。それを想って、「東橋新誌」という題みると、おのずから感懐をおさえ難うございます。古くさいがみじめです。今日では明治のランプをつけて古ぼけた写真くりひろげているよりも、土にじかにいて、星あかりに照らされる方がよりフレッシュであるようなものです。
 達者な新しさ。それをどんなにのぞむでしょう。文学の上に、ね。本当にすこやかな息吹きも爽やかな力を。わたしのカン布マサツの動機もお察しつきまして? 余り遠大すぎてお気の毒のようです(自分に、よ)
 さっき太郎が寝ました。この頃この男は軍歌ばかりうたいます。そして航空兵はおしるこが貰えるからいいね、と話します。
 つづいてみんなが国府津から帰って来ました。国男は珍らしく赤い顔して居ります。裏の近藤さんという洋画家が食堂で、ここの隣組は出席率がわるいということについて町会の小言をつたえて居ります。私は何だかどの話も面白くありません。すぐ上って来てしまいました。そしてこれを終りにいたしましょう。
 もと帝大かに来ていたイギリス人が(詩人でしょう)前大戦のときの各国の短篇を集めたものを神近市子が訳し二年程前出ました、「戦線・銃後」という題。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス等。それぞれにその国の人のテムペラメントがわかって面白いばかりでなく、こうして編集されたものが却って大戦の奥ゆきというようなものを綜合して感じさせます。バルビュスの暖い短篇もあります。オイゲン先生の国の作品が、大変理念的なものばかりなのは、これも注目する価値を感じました。その生硬さ、メロドラマティックな筆致においても。今に、かりにこういう篇集があり得たら其はどんな作品を示すでしょうね、昔物語のようよ、何しろ、三十何台かのタンクがはじめて前線に出て来たときの小説があるのですから。では又。

 十一月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(ユトリロ筆「雪のエグリーズ」の絵はがき)〕

 十一月七日。これが手紙にかいた絵よ。考えてみると、あなたは深く積った雪なんか御存じないのではないかしら。島田の冬は肩に降った雪がすぐとける位ですものね。何年か前はじめて島田に行った一月六日には淡雪がふっていて私の髪にかかりました。東京の雪というと、いつも思い出すのは歩道の横にのけられている雪ね。
[#ここから3字下げ]
馬をさへながむる雪の朝かな
[#ここで字下げ終わり]
 これはさすが芭蕉ね。北国の深い朝の雪景色、実に大した描写です。馬の匂いまでするようね。

 十一月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(池部鈞筆「池」の絵はがき)〕

 五日づけのお手紙をありがとう。マホー瓶はようございましたこと。
「新生」はうちにありません。どこかきいて見ましょう。「新生」ぐらいが、この作家の、人間をむき出しにしている作品でしょうね。『細菌物語』はおよみになったら拝借、カンプマサツをはじめたことは前便の通りですが、Cが不足らしくてハグキが妙になり注射はじめます、其々の段階で、病気がひどかったことや、どんなに破壊されているかと切実に感じます。

 十一月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(小山敬三筆「高山雪景」の絵はがき)〕

 十一月八日。どてらを着て、毛布をひざにかけて「幻滅」よみはじめて居ります。この作家の書きぶりが、七年以前よりも親しめます。そして、この作品が全く「描写のうしろに寝ていられない」筆でかかれ語られ、滔々として大河の如くあるのを理解します。ふだん着からその人の匂いが、じかに鼻に来るように、生活の匂いがします。それはいい気持です。そして、どうせ描写のうしろにねていられないなら、この位滔々たるものであってほしいと思います。

 十一月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十一月十八日
 火曜日には何だかうつけたようにしていて気持がおわるかったでしょう。御免なさい。私にとってきいたことがショックだったので、あすこへ行くまでのうちに自分の中に落付かせることが出来なかったのよ。その上、用事が足りていなかったから。重なっておいやだったろうと思います。
 金曜日の夜電話で日曜に来ないか、という招待でした。両家から。どうもそのときはあちらでプランがあるらしいので、久しい前から云われていたことだし、寒くならないうちきれいな樹々の色も見たくて行く約束しました。そして、夜かえるのは道があぶないし疲れるから泊るということにして。
 日曜日は七五三の日だったのね。あっちの女の子たちが五つですし。二時頃出たら四時すぎ着きました。車台が減っているのでこんなにかかったのね。降りたら、ヤーおばちゃんが来た! オバチャン! オバチャン! という声々の歓迎で、大きい母さん鶏のようにおせんさんが笑っているの。子供たちのおみやげはエホン、繩とび、リンゴ(大人へ一ヶずつきっちり)岩手から送ってくれ。包をもってくれてブラブラ辿りついて、夜まで卯女の家にいました。父さんも元気。あなたの病気を話そのほか。すこし話が経過をもっていることだと「一体いつまで知っているんだったっけか」という工合で両家の総員七人と私。泰子の二階で泊りました。ゆっくり眠って父さんは外出。母さんと子供たちとで豪徳寺の中を散歩しました。銀杏と紅葉が見盛りで、実にいい気持でした。いかにも十一月のおだやかな飽和したような天気でしたから。
 夕飯後帰る予定だったら、栄さん夫妻が来るから待つということになって、そしたら雨になりました。
 栄さんたちおそくよく来たと思ったら、話しがあったからだったのね。私がおどろくといけないと思って、何も云わず、雨の中暗いのに、あした真直行く方がよいということに決定。
 そして、あの日出がけに、卯女の父さんからききました。だから丁度、あすこに坐ったころは、私の気持が益※[#二の字点、1−2−22]ふかくうけたショックを滲透させるときだったわけです。
 ずっと友達の間も全く妙になってしまっていて、栄さんもおせんさん夫婦も不快なことばかりつづいていたのでした。私のところへは、何しろ電話一つこの何年もかけて来ないという工合でしたから。段々生活がすさんでいるのをきいて、全く心痛していたし、いつかそのままでは続かないと予想していました。しかし、こんな工合に現れようとは。田村俊子が、生活をこわしてアメリカへ行ったのは、やはり四十ぐらいのときでした。出版屋を借りるだけ借りした上。それも同じです、生活を乱脈にしてしまって、作家としての信頼を低めてしまったこと、それも同じ
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