何だか夜じゅうそこにいるような珍しいおもしろい心持がします。日が短くなったのね。あの日来信一束うけとりました。バルザックもありがとう。何年来かたまった手紙はかなりでした。それに封筒の紙がよいものだから新しいようにピンとしていて、今時見るとどこかよその国から来ているように印象が新鮮です。包みからはみ出した一つを待っている間によみかえしました。偶然達ちゃんの御結婚の日のことを野原から書いたものでした。妙なもので、時を経た手紙は自分で書いたものながら、やはり専門家らしく客観でよみかえしますね、そして、あんまり上々の手紙でもないナと思うのよ。こまかく書いているけれども気がせわしいところがあって。
 一行一行をゆっくり辿ってみると、それがわかります、ですからきっとあなたもそれはお感じになっているのでしょうね。たのしんで書いてはいるのだけれども、いかにも迅い文字の運びで。
 でも、あなたはちっともそのことについては苦情を云わず何年も辛棒して下さいました。毎日どっさり書くものがあって、その熱気のほとぼりの勢で思わず書く手紙はああいう自分としての連続したスピードがこもってしまうのかもしれないことね。
 今はそれならどんなでしょう? 手紙をかくのが唯一の執筆だというとき。やっぱりブランカらしくのぼせて早口でしょうか、あぶないものね、又何年か経て見たら上々でもないと、我から乙をつけるでしょうか、それが成長の証拠ともさすがに申しかねます。
 手紙については面白いことを考えます、というより発見します。わたしは十六の時から、1930 までずっと日記かきました。
 その後かかなくなって又書こうかと折々思いながら書かないのは何故かと考えてみたら、私が日記にかきたいようなことは能う限りの率直さでつまりはみんな手紙にかいてしまうのね、だから日記はダブッテもうかかないということになってしまいます。何か心に目立つものをうけとれば、いつも手紙に書いてしまうのですものね。日常のこと、文学上のこと、そして、計らずもこれは日記をつける以上に有益なのかも知れません。何故なら日記はひとり合点承知の上。手紙は手紙ですものね。その上日記にはしない表現の上での積極が加ってもいて。だからもしかしたら手紙を私はよほど大切に思って書いてよいのかもしれないわ、心持の上での大切さと同じくらい文学上の大切さを自覚して。しかし、そんなこと忘れて書くところ書いているところに手紙のよさはあるのでもあります、只今唯一の願いはせっかちでない手紙をかくということよ。仕事に自分を馴らすために、ワアーッと勢にまかせて一度に何枚もかいてしまわず、念を入れて二日にわけてかいてみようかなどと。手紙には大抵三時間以上費します、一日分の制作として十分よ、もし緻細にかいてゆけば。
 お医者の意見で、私がすこし平常の仕事に耐えるようになるのは来年の夏ごろとのことです。一人前の外出、一人前の仕事の意味で。呂律《ろれつ》もちゃんといくらかよくなって。しかしそれまであんけらかんとしていたくないから私は生活をよく整理して、一番つかれる外出とか来客とかはこれからも最少限にして仕事をすこしずつなりともしたいと思って居ります。
 風邪大したことにおなりなさらないようにね、国もきのう、きょうはドテラ着てフラフラです。私のグリップというのは菌が血液に入って淋巴腺がはれて困ったのでした。
 グリップというのは、二度ほどやったからお医者さんが一こと云ってくれれば注意したのに。知らず、すこし早くおきてあとよくなかったのでした。咲が私の枕もとへ来て女中がなくてとても駄目だ、いる人は病気で臥たというのだもの、臥てもいられないわけでした。
 咲は神経衰弱をなおすためにこの頃自転車で一日に二時間近くのりまわし、それでやっと眠り食べられる方へ向いて来て居ります。泰子は純《ジュン》生理上の弱さですが、大人への影響のしかたは複雑で、心理的となり、遂にモラリスティックな問題にまで入って来ます。この点がもっともおそろしいところです。泰子に体をくわれるのはよいとして、心をくわれ、一家の健全性をくわれるのは許せない気がします。
 こんなにむき出しに自然の暴威を目撃することは珍しい経験の一つというべきでしょう。母の本能性は尊くもあるが余り盲目でありすぎます。一家の健全性についての責任があるというようなところまでゆけば。あなたに迄とんだとばちりで御免下さい。もうやめましょうね。いろいろな心理とモラルのクリシス(母、女として、妻として)を感受するのが収穫であるというだけでおさまるには、私は少し人間ぽいのよ。そんな三文文士根性に止まれない健全な人間としての憤りがあるわけです。しかし咲として泰子にからむ自分のいろいろの動揺をたたかってゆくことはやはり一つの大きい訓練です。こういう本能的な女性の人間成熟のためにこんな自然の材料が与えられているということを考えるべきでしょう。これをも宝というほど人間のキャパシティーは巨大でしょうか(?)
 其にしても人間は面白いことね。咲にしろ私にしろ泰子が可愛いとかいじらしいとかそんな一面の「いい心持」で人間成長はしなくて、むしろ逃げられない負担とたたかう心理の内でだけ豊かにされ、成熟し勝利し得るというのは。
 こうして人生のテーマは深められるのね。生活的に咲の正気の側に私というおもりのついていることは大変いいことです。神経のエクセントリックな衝動とのバランスの意味で。そして大局には私をもゆたかにするのでしょう。咲枝をよく理解し同情し、いろいろの生活の障害の本源を理解しようとすれば、やはりおのずから見るべきものは見なければならずですから。
 きょう手紙かき出すときにはもっとほかのいろいろのことを話そうとしていたのでしたがおのずから「うっせき」が洩れました。
「三人の巨匠」は少しずつよんでなかなか面白いテーマがひき出されます。シェクスピアが最大の人間通[#「人間通」に傍点]であるとし、彼の全作品のテーマは常に何かの「誤解」である、そこからの悲喜劇であると云っています。「オセロー」ね、あの女主人公と主人公との間の誤解、「リア王」の誤解、しかし現代の人々はああいう単純な誤解の上にあれだけの悲劇は発生させず、従ってかけません。ああいう誤解そのものが生活から減っていますから。この点が私にはひどく面白いのです。時代と文学のテーマとの関係で。シェクスピアがあんなに単純な誤解、殆どおろかしき誤解の上に、あんなに人間性を乱舞させ得たのは何故でしたろう。それは「誤解」がその時代最も人間性を解放するテーマであったからではないでしょうか。交通の不便さ、しかも拡大された地球、発達しはじめた産業、しかし中世のしっかりした身分別。最後のこのものは、リアとコーデリア、オセロとデスデモーナ、人間と人間とを型にはめた関係におきますが、誤解はそこに加った人間の心の積極な動きとして生じ、そしてそれをキッカケに人間性を溢れさせました。意志の疎通の欠けたところからだけ誤解が生じ、(しかし誤解の生じるだけ型やぶりがあり、)=コーデリアの潔癖=それがシェクスピアの文学で典型の単純さでつかまれました。それだから人間をあれだけ活かして動かせ、活人間として今日うけとれるのではないでしょうか。そうだとすれば、大きい文学は必ず、その時代の典型のテーマをもつべきであるし典型のテーマというものの深まりは今日ではもう世界史的スケールのものであり、それは単にマニラ紀行ならずという大課題が浮んで参ります。いつぞやシェクスピアの作品を分析したシルレルだかの本がありました。時代にふれて勿論いましたろうがテーマのそういう点についてそういう文学としての本質についてどうかかれていましたでしょう、大文学というものについてその骨格についてはなかなか深く、文学をそこで捕え得るか否か及びそれを作品化する力量の問題等興味つきません。日本文学の古典にしろ、国内的にそういう歴史は踏んで居ります。しかしシェクスピアのように人間爆発のモメントとして「誤解」はとらえられて居りません。近松が一番可能を示す作家ですが、作品の中ではどんなに展開しているでしょう。誤解以前の「約束」どおりの動きを人間の動きとして動かしがたくうけとって相剋する人間性だけを彼はとらえたと思いますが。そこに日本文学の根づよい特色があるわけでしょう。文芸評論というものの奥ゆきについても考えます。同時に内国的に或る統一段階に到達した国の文学の創造的衝動の消長の問題も決して見のがせません。新たな一種の困難と貧困に当面していたかのようにあるのは何故でしょうか。あなたがゆっくり横になりながら答えを見出して下すったらと思います(これは今後の文学がその国でおそろしく豊富に花咲くだろうという明かな見とおしとの対比において)。文学者の成長というものに要する長い時間、それから文学的資質というものの拡大の鈍さ(そのことは各面に云えるでしょうが。例えば技術家的資質の本当の精神性への拡大の鈍さ、としても)文学がつまりは文学的資質でだけ解決されなければならないという、或種の文学者にとっての無限のよろこびと無限の苦しさ。(どんな作家でも彼がもし本当の作家であるならば、自身いかに雄々しく幾山河をばっ渉しながらも、つまりはそれを作品に再現する静かな時間を望まざるを得ず、それを与えざるを得ず、作家は自身の限界を突破しようとするやみがたい衝動とそれを作品にする外面的孤独沈静の時をのぞむやみがたい衝動との間を絶えず揺れているもので、作家の養成と成長との助力はこの機微にふれているものであるということ)
 文学的資質が拡大し脱皮するためには文学より外の刺衝が入用であり(志賀直哉の時代に美術と音楽がそうであったように)近代ではそのミディアムがもっと科学に接近してい、しかも科学の資質では文学そのものではなく、例えば「北極飛行」は全く新しくよろこばしい文化資質の典型の一つでありますが、文学作品ではなく、文学作品として「ピョートル大帝」がやはり今日までは大作として代表され、しかしあの資質は決して「北極飛行」よりも新しいものではありません。ここにも文学の資質の新しく発現する可能のむずかしい過程があります。これから後十年経てば、この問題はおのずから全く新しい答を見出すでしょう、しかし、おそく花の開く国ではあとまで考えられます。だから或時期における文芸批評の大切さというものは想像以上であると今更思われます。或意味でより若い新しい資質がそこに発芽するのは当然であり、より旧墨になじむ文学的資質はそれと摩擦し、しかし一方で魔法の杖のように新しい資質へよびかけそれを引き出すものです。新しい文芸評論は既に自身の新たな分析力による段階を脱し、分析しつつその分析の美しさ精神のリズムの綜合的な魅力でそれをおのずから綜合的な創造的な鼓舞へ向けてゆくものでなければなりませんね、その志向において愛に燃えていなければうそです、人生へ向って、ね。どんなにそういう評論をよみたいでしょう。「三人の巨匠」はややその渇をみたします。よみたい欲が自分に幼稚なものも書かせました。が、私はもう小説に限ります。あらゆる私の作家としての問題、宿題、予測をすべてあなたに訴えることにきめました。私は小説のことがこの頃又すこし分り、評論のことも又すこし分って来て、制作として二途を追いにくいことが明瞭となりました。或る成長の後二つは却って兼ねにくいもののようです。どちらもそれぞれ全力を求めます。二つの神に仕えられないと昔からいうのはうそでない。
 私は自分の中の評論家にいくらか手引きされつつ刻苦して自身が呈出している課題を克服して行ってみたいと思います。我々の世紀、私たちの時代、限界のなかで、文学の資質はどの位まで更新し得るものであるか、そのすべての条件を試みてみとうございます。私に小説のことがすこし分って来たというのはまやかしではないでしょう? こうして、私は自分の問題から段々ぬけ出して、日本における一定の世紀の文学的資質というものへの答えを捧げたいと思うのです
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