かひっぱって、「ケプラー」をよんで、そして「三人の巨匠」で扉に向ったというのは面白いことです。読むものが、直接でない刺戟、思考の刺戟というような役に立って行って、或段階で直接なものにふれ、展開するのは興味があります。読書の神秘とはここに在るのね。
「三人の巨匠」は、ツワイクの一番緻密で芸術的で努力的な作品です。作家をその精神の核の性格においてとらえ描くということは余りやらないが、むずかしく、それ故面白いことです。今ドストエフスキーのところをよんでいます。この作家の二重性、分裂をそれなりこの作家の特質として、その明暗の間に走る稲妻を作品に見ているところは、大変魅惑的な労作です。しかし最後の「悪霊」ね。あれにはネチャーエフのことが出ているのではなかったかしら。あの大スラブ主義などは果して今よんだらどういうものかと新しい食慾を覚えました。ツワイクは、ドストイェフスキーの存在を、一九〇五年を前告した嵐と呼んでいるのよ。嵐雲のおそろしい気の狂う美しさとしているでしょう。
 風邪をひいたのは気候のせいもあるけれども、数日間つきものがして(シャレタひとはデエモンと呼ぶ狐)すこし夢中になって精根をこきつかったからもあるのよ。今、小さいお産を一つしたようなところで、おとなしくなって少しくたびれて、一休みして、気をおちつけて、やがて仕事にとりかかります。
 今年のお誕生日は、何をさし上げようかと思っていたのよ。去年は眼もろくに見えず、字もかけず、頭は妙で、その代り一世一代に献詩いたしました。今年は正気でしょう? 詩も出来ないし。そしたら計らず、こういう扉を一つ廻転させまして、あなたならこれをもおくりものとして十分うけとって下さると存じます。本質的にはああいう詩の十篇より永もちのする値うちがこもって居ります。何故ならこういう力のいる一生に何度という扉のあけたては、気が合って、四つの手の気合いがそろって、じり押しに押した揚句くるりと展開するのですから。お祝いにわたしは小説のプランをさしあげようと思います。

 十月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十月四日 つづき
 一人の作家のなかにある、作家とモラリストとの関係は、いろいろ興味ふかく且つ本質にふれた問題ですね。芸術の向上の歴史がそこに語られても居るようです。この間いろいろ考えているとき、芥川の「或る日の馬琴」を思い出しました。つづいて「地獄変」を。
 こういう問題のチャンピオンはトルストイと考えられていて、たしかに彼はあの強壮な精神と肉体との全力をつくして立てられる限りの音をたててこのたたかいを行いましたが、考えてみると、実に不思議に自分の枠をはずせなかった人ですね。あんまり枠が大きくて、つよくて、こわれなかったのかもしれないけれど、最後の家出にしろ修道院に向ってであって、それは客観的には最も彼にとってやさしい方向でした。自分の一面の力への降伏であったと思います。更に面白いことは彼にあれだけの文学作品があって、それではじめて、あのモラリストとしての動きの意味や価値が明らかにされていることではないでしょうか。
「人はどれだけの土地がいるか」という民話ね、覚えていらっしゃる? いかにもあの時代の、地主の、良心ね。死んで葬られるだけあればよい、というの。そんな土地さえなくて、現代の人々は生き、そして死んで居ます。現代は、地球のどこにその土地を求めようというのでしょう。この間顔を洗っていて、朝何故だか其を思いおこし、トルストイの民話はつまらないと思いました。時代の制約の中でだけのモラルです。(少くとも或るものは)
 馬琴の煩悶に托して芥川は、自分の疑問を追求したのね。しかしモラリスティックな欲求というものも馬琴はあの時代、もう武家の伝統が自ら推移したなかで、町人の文化の擡頭した時期に、伝統の擁護者としてリアクショナルなモティーヴからあらわれ、従って彼のモラルは前進する動きよりも類型をもって固まるしかなく、明治文学を毒した善玉悪玉式図式をつくってしまったのね。馬琴の悲劇は、モラルの本質がそういうものであったから、支那文学の影響も稗史《はいし》小説、綺談等からうけ荒唐無稽的となり文学の一面で当時の卑俗さと結びついています。春水と馬琴とのはり合いのことが、馬琴の側のふんがいとして描かれているけれども。春水はくだらなくてデカダンスであったにしろ、文学の発生として雑種でありませんからね、そういうところはあるわけです。
 芥川はモラルと芸術性をあの時代らしく対立させ、それを追求はしたが、馬琴に托してしかも馬琴のモラリティーのうしろむきの工合をはっきりつかまなかったものだから、その先には「地獄変」しかなかったわけね。芸術至上主義をああいう形で押し出して、宗教的にしてしまったのね。芸術のために自分の娘をやいてもよいというのは、アブラハムが自分の息子をやこうとしたような、何と旧約風の憧憬[#「憧憬」に「ママ」の注記]でしょう。本をしまってしまってよめないけれども、「『敗北』の文学」の作者はこんな点をどう扱ったでしょうか、みたい気がいたします。
 この問題について、私なりの回想があるのよ。小説をかくようになってしばらくして、開成山の家へ行きました。それ迄気づかなかった坐敷の欄間に一枚板に白うるしで細かい漢文が彫ったのをはめこんであります。只字と思ってよめなかったのをそのとき気がついてひろってみたら、おじいさんが開成山開発の事業、猪苗代湖水の疎水事業のためにどんなに身を砕いたかということを書いたものらしいの。私は何となくがっかりしてね、そういうおじいさんの孫として生れている自分のなかにある無風流さを考えたことがありました。
 その時分は、佐藤春夫の祖父や父が詩文や絵の愛好者であるというのをうらやましいように思ったものよ。それからよくぞ自分は風流[#「風流」に傍点]でなかったと思う時期が来ました。そしておじいさんが、自分の客をとおすところへそんなものをおきたく思った個人的な心持、個人的にむくわれなければむくわれたと思えなかった人の気持(しかも万人のためにと働きつつ)を思いやることが出来るようになりました。
 それから全く新しい地盤で、文学の課題として、自分のモラリスティックな素質を考えるようになった時代。そして、この時に到ればもうこれはおじいさんの問題でも自分[#「自分」に傍点]の問題でさえもないという次第。
 一寸話がわき道に入るようですが、ふと荷風の「あめりか物語」(明治四十一年)をよんで、谷崎のロマンティシズムと対比して荷風のねばりのよいのがわかるようでした。谷崎というひとは官能的なのね、情感的デカダンスが荷風であるとすれば、谷崎はもっとずっと人間的には自然発生で、肉体の年齢のままに官能が老境に入るたちの人ですね。だからあんなにだらしない歌を紫式部にたてまつったりするのですね。荷風のあくどさはペンキ絵ではないわ、せいぜい水彩かパステルね。谷崎のはペンキ式です。春夫の生きのよかった時代がペン画に淡彩をほどこしたの。
 荷風のこの「気分を味う」傾向は、年とともに傍観的となり、又薄情ともなり「※[#「さんずい+墨」、第3水準1−87−25]東綺譚」「つゆのあとさき」等傍観そのものが文学の敗退を語っているようなものになるのだと思いました。
 谷崎の方は、根が単純な官能に立っているから、年をとるとあくが抜けざるを得なく、あくがぬけたあとにのこるのは常識で、念仏っぽくなるという仕儀です。
 日本の近代文学におけるデカダンスというものもこれまでの評論は、どこまでつきつめているでしょう、肉体に対してだって谷崎なんかつまりキレイなものをキレイとして見ているので、ストリンドベリーの肉体の描写の美しい動物らしさは一つもないと思われます。私はバネのゆるいおぼれかたはきらいよ、ね。
 きょうは午後じゅう書いてしまったのよ。
 もう暗くなって来ました。階下に干しておいたあなたの袷、誰かいれてくれたかしら。さあ見て来なくては。そして夜はその袷のとも衿をとりかえるのよ、御覧になったら下手で、きっとすぐわかるでしょう。きょう、ふとんやに坐布団縫いのこときかせました、ひきうけるかしら。
 この紙はペンの先を案外に早く悪くいたします、そしてかきにくいのよ。この頃の手紙の字はきれいでありません。気ががさがさしているというのではなくて、画をちゃんとひっかけて、きっちりかくとしみて、スースーとかくでしょう? だからいやな字になるのよ。

 十月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 十月九日 土曜日
 雨の音が同じようなつよさで聴えつづけて居ます。ひさしを打つ雨の音、屋根にふる雨の音、葉から葉へしたたる雨の滴、それらがみんな一つにとけ合って、かすかにきわだついくつかの音の奥に柔らかく奥ゆきのある雨の日です。
 私は机の前に居ります。紫の前かけをかけて。雨の音とともに、粒々と鳴るような気持で、この部屋に云わば巣ごもっているのよ。そして、どっさりのことを感じ、その感じを味い、考え、どうしたらあなたにうまくものを書く妻らしくつたえられるだろうとも思ったりしている次第です。
 きのうの夜から、私の心も体も充電されたようになっていて、それはとても自分一人で沈黙の中に消しきることが出来ません。それらはどれも私から生れることを希っているのですもの。その希いは余り激しくてね、私を休ませないのよ、燃えたたせます。物語や断章やになって、それらは翔んでゆきたいとあせっています。
 その一つの物語。
 山と谿谷の景色の非常に美しい崖に一つの城がありました。山はなだらかに高く、その上にはひろい天がかかって居ますし、谿谷の襞《ひだ》は地球が熱かった時代の柔かさと豊かさを語るように幾重にも折りたたまれ、微妙な螺旋を描いて、底の川床までとどいています。景色の美しさにもかかわらず、そのあたりは自然の深さのなかにかくまわれていて、人跡が絶えています。山と谿谷を明るく又暗くするのは日毎にのぼって沈む太陽と、星と月ばかりでした。川床に流れる水は、常に清冽で、折々見えない力にうながされたようにその水量が増し岸の草をも燦くしぶきでぬらします。しかしその濡れ、きらめく草の愛らしさを見るものは、やはり人間ではありませんでした。大抵は月ばかりでした。
 崖上の城はいつ建てられたのでしょう。古い城と云えば、大抵茶っぽい石でたたまれているのにその小じんまりとした城は白い石でつくられていて、円柱がどっさりあって、どうしても戦いの砦のために築かれたものとは見えません。
 山と谿谷の自然の抑揚の中に、一つのアクセントとして、或はその起伏を最もたのしむよりどころとして、寛闊に、音楽的に建てられたものらしく思えます。不思議なことに、その城にも人が住んでいません。白い円柱《コロネード》の列や滑らかな曲線の床を照らすのは、やはり太陽と月とであり、そこをめぐって吹くのは風ばかりです。
 とは云うもののこの城に人が住んでいないというのは本当でしょうか。何故なら、城の隅から隅まで一ところとして無住の荒廃は認められません。手入れがゆきとどいているような艷が谿谷を見おろすテラスにも、円屋根のあたりにも漂っていて、古びたおもかげはなく、たとえば、城そのものが自身の白さや滑らかさやを養う力を自分のうちにたくわえているか、さもなければ、ここにふる夜毎の露に特別な恵みがこめられていて、いつもそれを新しさで濡らすかのようです。こうして、静かな時の中を山と谿谷と白い城とは不思議な呼吸をつづけて居りました。
 ある秋の日のことでした。その日は大して特別な天候というのでもありませんでしたが午《ひる》からすこし曇り出した山上の空は夕刻になるにつれて落付かなくなって、すこし葡萄色がかった紫の雲足は迅く、折々その雲のさけめから見える紺碧のより高い天の色とその葡萄色がかった雲とは、極めて熱情のこもった色彩で白い城に反射しました。川は迫って来る大気の中の予感にかすかに震えるように光って、低いところを走っています。
前へ 次へ
全44ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング