やかにする原因でした。
 カッパの頭のてっぺんに何故人間は皿を描きはじめたでしょう。面白いしおかしいことね。どうせ架空のものでしょう。その頭の皿が乾くと力がぬけるなんていうのは感覚の問題で、人間は頭のてっぺんの工合について昔から何か無関心ではなかったというのでしょうか。この頃こんなことを云って笑うのよ。「河童の皿が内へ、凹まなくなったからいい気持!」すると、咲枝が答えます、「ほんとにそうらしいことよ、顔つきも落付いて来てよ」脳天の大切さ沁々と感じます。
 御存知の鈴木氏の令嬢二人のうち長女が半沢氏へ嫁しました。三年前。結婚のときも、一寸相談をうけ、お父さんはあらゆる条件をととのえ、理想的な結婚をさせ、北京に出張していました。技師だったの。そしたらこの六月、東京へ帰任する決定で、最後の出張をして小さい村にある事務所にとまったら、その夜襲われて奮闘の後命をおとされました。兄さんとお父さんとが北京へ行って、「家財をとりまとめ」東京へ帰って来て、若い未亡人はお里と嫁家と半々に暮すことになりました。一男あり、三歳です。
 私はこの人たちのつみのない幸福が、こうして破られたことにつき、又、娘の幸福を、万全つくして守ろうと努力して、より大きい力にその計画を挫かれた父親の心を深く同情して、通知を貰ったとき手紙をかき、お盆には娘さんにシートンの『動物記』をあげました。本当は、シューマンの詩人の恋というリード集のレコードがあってね、その歌曲を聴いていると、シューマンという人を通して、生粋の男の真の優しさ、情愛、愛着が身に沁みとおって感じられ、暖い暖い勇気を覚えます。その歌曲のメロディーに合わせて胸の底から鳴り出して来る女の真情が自覚されて来て、それは全く男の中の真実に相答えるものです。妻たる女が良人を愛しているという本当の意味で生きている女が、初めて感応する深みです。そのレコードをあげたら、親にも子にも話しても分らず、又言葉ではない良人のなさけ、それに浴した妻のよろこびと涙とを感じて、涙の中から最も感情として純粋に立ち上れると思ったのでした。今頃そんな高級レコードはおいそれと買えないのよ。それで生も死も純粋な形である野獣の生活、そこにある生命力情愛の様々をよんだら、何かこまごまと世情人情にからみこまれた気分から、清冽な気分を味えようと思って。
 そしたら一家じゅうの愛書となり大変よかったのですが、父さんは、手紙をよこされ、小さい男の子は自分が親代りになって育てるつもりだとのことです。これは婚家の気風の何かを無語のうちに反映していますし、娘の将来の生きかたについて思いなやんでいるとありました。娘さんは何か相談があるのでしょう。私のような後輩まで娘にとっての先輩としてそんなことも話す父親の情をつよく感じます。私たちも、情の深い父親をもって居りましたから。覚えていらして? スカンジナヴィアへ行かないかと云ったこと。あんな風でしたもの。それを云ったときの父の遠慮したような、心を砕いているような表情を時々思い起します。娘さんとしては又おのずから様々の感情でしょう、だって、父があんなに万全をつくして確保してくれようとした幸福、しっかり枠をつけてそこから逃げないようにしてくれた筈の幸福は、こんなにもあっさり破れたのですもの。父さんの力をもってしても及びがたき人生を痛感しているでしょう。
 そして私はこう考えるのよ。父さんの愛は常識に立ちすぎていて、幸福と世上に称する条件を、そのまま固定的に揃えて、それで幸福を確保しようとするところに悲劇があります。勇気をふるって、お前の不幸をも賭して幸福をつかまえて見よ、という境地に立っていません。勿論そこまで行くのは謂わば一つの禅機です。底を抜いたところがいります。娘さんの人柄に対してそういうのも無理かもしれません。しかし人生はそういうものよ、ね。そこに千年《ちとせ》の巖があるのです。巖に花も咲きます。つながりの工合だけで決定されてゆく人生というものは、謂わば果敢《はか》ないものですね。
 現実に身のふりかたをきめるとなって数々の困難のあることもよくわかります。身をすててこそ浮ぶ瀬もあれ、というのは古今集の表現で、時代的なニュアンスが濃いが、最も勇猛的な解釈もつくわけです。それに、そこまで自分を鍛えられるほどの底深い情熱をもち得る対象にめぐり合えるか合えないかということもまことにこれこそ千に一つの兼ね合いですものね。めぐり合ったとき、どうせ自分は未熟きわまるもので、もしもその対手がそこに可能を見出さなければ、それきりのことですもの。相互的というところもあるにはありますけれども。
 きょう、かえりに、あの辺はお祭りで、町の神輿《みこし》を献納するための最後の祭りでした。花笠だの揃いの法被《はっぴ》、赤い襷の鈴、男の児の白粉をつけた顔、まことに珍しく眺めて停留場へ来たら彼方に一台電車が留っていて動かないのよ。子供をひいたという声がします。子供の大群がそちらの方へ駈けてゆき、男の大人が一人シャツだけでワッショイワッショイと両手で子供の群を煽って亢奮して駈けてゆきました。きれいな祭着の女の子たちもまじってゆくの、かけて。
 その子はいいあんばいに小さくて車体の下へころがりこんで命に別状なくてすんだ由。でも秋日和に照らされて電車は動かず、王子の方へゆく電車で大塚まで出て市電でかえりました。菊富士に部屋もっていた頃、目白へかえるのに大塚終点までよく来たので、独特な視線であのあたり眺めました。山海楼という大きい支那料理やが出来ていました。

 九月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月十二日
 きのうは大変珍しい冒険をいたしました。というのは、病気以来はじめて、三井コレクションの絵を見に行って、かえりにペンさんのところで夕飯を食べたのです。平河町の停留場の角に光ヶ丘病院というのがあるの御存じでしょうか。あすこは昔聖マリア館と云って聖公会からイギリス婦人が来て住んでいて、ミス・ボイドという人も居り、そこへ本郷からよく通ったものでした。そこが先年から光ヶ丘病院となりました。そこについて曲って一寸行った右側。三井の誰なのか、去年からコレクションを小さい展覧場をこしらえて公開いたします、各土曜の午後。僅か十数点です。その位なら大丈夫だろうと出かけ、久しぶりで心持よく亢奮しました。
 いつかお送りしたモネの色彩的な「断崖」、ヴァン・ダイクの極く小さいもの。(この紙の倍ぐらい)コローの二十号(?)位。ブリューゲルの(冬)黒田清輝の先生であったコランの「草上の女」そのほか数点でした。美術学生が主として来ています。その人たちが近づいたり遠のいたり技法や(色のおきかた、コムポジション)を研究しているのを見ていて、何か私は洋画の伝統というものについて痛切に感じました。これらのクラシックのものは、どれも本物ではありますが、其々の大作家の全スケールからみれば全クフラグメントです。コローにしろ、ブリューゲル、ヴァン・ダイクみんなみんな壁を圧する大作をもっている巨匠で、その大さその精励、努力を土台として、小品もつくっているのです。しかし、こうやって将来されている作品しか見ることの出来ない人達は大家の世界的な規模、容積、気魄に打たれ、という芸術上のありがたい刺戟を感じることは少くて、何か近づきやすく詮索がましく、高揚されるより真似の出来るところをさがすという傾です。日本の金持はなかなか大きな作品は買えないということにひそめられる大きい意味を感じ、体がひきしまるようでした。
 ペンさんは十月二日におよめに行くから一緒に一度御飯たべようと思い、しかしこの頃は外食券がないと御飯たべられないのですって。そこでペンさんの家へゆき、おかずを私が買って母子と三人でたべ九時、夕立の後かえりました。月夜の中を、送ってもらって。
 きょうはいくらか御疲労です。けれどもいい心持よ、何しろ、ほんとうに足かけ三年来はじめて用事でなくて外出したのですもの。音楽は音の刺戟がきっと大きいでしょうからもっとあとのことです、眠れなくなるといけないから、ね。
 本きょう頂きました。ホグベンの『市民の科学』を序よみましたら、この人は奥さんも経済学の統計学者なのね。四人の子もちです。奥さんは人口問題についていい仕事をしている由。すこし自分の心持を辛辣に出しすぎた序文です。しかし、「単純な真理について語ることを自分の権威にかかわることとは考えなかった」偉大な科学者たち、ファラデイ(「ローソクの科学」の著者ね)、チンダル(「アルプスの氷河」の研究)、ハクスリー(「死とは何か」)などを先輩と仰いでいるから仕事には責任を負っているでしょう。それに経済史のひとや教育学、応用数学の人たちの共働があります。そして序文にその本が出来たのは、ゴルフや宴会を系統的にことわって来たたまものだと云っています。
 汽車にのっている間にかいた原稿が土台なのよ、タイプで原稿をつくるということにはこんな大きい能率上のプラスがあるのね。
 果して私によめるのかどうか、何にしろひどい数学の力ですからあやしいものね。
 この頃になって、自分の生活事情や性格というものに及んでも考えますが、私は十年前の旅行のとき何と筆不精だったでしょう。そして何とものを知らなかったでしょう、今は惜しいと思います、どうしてもっと細かく見聞を書いておかなかったでしょう。旅行のつれの関係もあり、ごく世俗的な興味や関心で消費していた点もあったけれど。私は筆まめに書きはしても、実質の飛躍のなかった人よりましというのがせめてもの慰めです。あとから書いた見聞の紹介はどっさりありましたけれども。
 例えばバクー大学にスキタイ文化の遺跡の集められたものがあって、これは日本の天平時代の美術と全く通じます。支那を通って日本に入ったのですが。タシケントの手前の蒙古にあったというギリシア文化と支那の文化の混交した古都のことなんか何も知らず、あのバクー大学の考古学参考室なんか、今考えると惜しいの惜しくないの。お察し下さい。大東亜という言葉の本当のよりどころは、そういう大きい文化の流れをとらえなければならない筈でしょうし。
 そのときは、ああ奈良朝の美術はここから来ていると漠然思ったきりで、ちっとも深く勉強しませんでした。惜しかったことね。固定して古典詮索の興味よりも、交易商業というようなことで古代の人間が不便な中を大きく動いたそこが面白いのね、ホグベンが再発見した支那から欧州への「|絹の道《シルク・ロード》」のようなものです。その道に当っていたらしいのですね。そのギリシアとペルシア支那文化のとけ合った全く独特の都会というのも。三蔵の大旅行の時代には在ったそうです。
「金髪のエクベルト」早速よみました。いかにもドイツの話ね、あの白っぽいドイツの金髪の色と灰色とみどりのような配合の物語ね。
 因果というようなモティーヴを兄妹の恋という形でつかまえるのは東西同じね。歌舞伎のお富と切られ与三郎の芝居で、お富は自分を救ったのが兄と知らず、どうして落城しないかと盛に手管をつくし、あんまり固いのでやけで与三といきさつを生じ、旦那たる兄から打ちあけられる場面があります。でもそこが日本の世話もので、金髪の騎士のような手のこんだ魔法は作用していないから、お富が「因果のほどもおそろしい、わたしゃあまあ穴でもあったらほんに入ってしまいたい」と袂で顔をかくすところを梅幸はうまくやりました。あの物語はドイツの空想の特徴が出て居りますね、風景の描写にしろ。面白いけれど、好きというのではないことねえ。きょうはこれからひるねをいたします。

 九月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月十四日
 きのうは、あんな装束で、お笑いになったけれども、帰りは大した降りで、すっかり体まで雨がしみとおり、顔を流れて、前方が見にくいほどでした。眼鏡はいろいろのとき不便ね。雨のしぶきが傘の布地をとおしてこまかくついてしまうのよ。
 一般に女の装は随分かわりましたが、特にこの一ヵ月
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