ところで妙なボダイ心をおこし、享楽主義も中途で平凡な善悪にひっからまってしまって、あんなことになったのね。大正のネオ・ロマンチシズムの末路の一典型であると思います。春夫が奇妙な生き恥を文学上さらしているのと好一対。しかし谷崎の方がすこし上です人物が。谷崎は、春夫ほどケチな俗気にかかずらって文学をついに勘ちがえしていませんから。
 藤村は「東方の門」という長篇(岡倉天心を主人公にするものの予定でした由)の第三回をかいていて、死にました。七月下旬大東亜文学者大会というのが二十五日にひらかれ、Yなどが満州代表として来たりした一二日前に。「夜明け前」のような主調を、一まわり東洋にひろげたものであったのでしょう。この作家はいやな男ですが、文学者としての計画性について、それを押しとおす実際の努力について、学ぶべきところはあると思います。人物のいやな面を十分みぬきつつも、一方のそういう力は学ぶべきですね。どういう意味と目的とからにしろ、彼ぐらい計画性にとんだ作家はいません。あの年代の人で。秋声は人聞は遙かにいいけれども、自然発生にああなのだし、正宗に到っては、旦那衆の境遇上のスタビリティーですし。
 きょうは颱風模様で、ここの隣組は防空演習なのに、咲枝気の毒です。私は出ないの。あぶないから、まだ。泰子は結核の方はかかっていないで、ああいう体だから恢復がむずかしいのですって。わたしの燐の注射は利くのでしょうが、薬が四年前に製造中止で十本しかないのは哀れです。頓服でいいのがあるけれども其も入手が骨で全くの貴重薬です。
 スープの味はいかがでしたか。どうか呉々もお大事に。わたしのために、どうかいいよいいよとおっしゃらないでね。東洋経済へのお金のこと間違なくいたしますから。では又、きょうのようなべとつく日、さぞあつい湯で体をおふきになりたいことでしょう。

 九月八日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(青森林檎畠の写真絵はがき)〕

 九月八日
 ペンさんが青森へ行って、おみやげに林檎《りんご》畑のえはがきを買って来てくれました。昔、「土」という映画があって、ウクライナの麦や果実がたわわに露にぬれているところを美しさきわまりなく芸術化したのがありました。それから見ればあまりつつましいけれども、それでもすがすがしさがあります。上林にもリンゴ畑の小さいのがありました。

 九月八日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(西沢笛畝筆「十和田湖と三羽浦秋色」の絵はがき)〕

 大町桂月が十和田を有名にしてから、アパート式のホテルが出来たりしているそうです。しかし自然はやはりなかなか雄大でみごとらしく、これは気の毒な地方の人が風雅と心得た絵で、笛畝は人形絵の専門家でしょう?
 何とチンマリした十和田でしょう。

 九月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月九日
 なかなか又暑い日となりましたが、それでも秋らしさも濃くて面白い日です。風のふき工合など。南も北もからりとあけた二階で、ものを干したりしていると、風にカタカタと小障子の鳴る音がして、それはまぎれもない秋日和の感じです。昨夜なども面白い夜でした。
 月が早く落ちて、夜の十一時頃西に傾いた月が庭木をひとしお暗く浮き立たせながら、光を失った色で梢に近くありました。星は光を消されないで小さく澄みながら窓に輝いていたり。
 稲子さんの書いたものにも、ほかのひとのにも、南方に冬がなく、夏つづき、正月にひとえを着て雑煮をたべる妙な気持をしきり云っていますが、こんなこまかな日本の季節の感じに馴れたものは全く夏つづきというにはぼーっといたしましょう。隆治さんはジャワでようございました。あすこも夏ばかり、花の咲きつづけのところですって。しかし、なかでは凌ぎよい由。花が咲く、という言葉には、深い感じがあって、それこそ花のない町という裏づけがあってこそなのだのに、年がら年じゅう花が赤く黄色く開きぱなしの自然の中では、よろこびの感覚さえ眠ってしまうでしょうね。
 ゴーギャンの絵の感覚は、そういう自然の中に他国の感覚で入って行って、全身をそこに浸したときの作品ですね。文学は生れますまいね。音楽が単調になることもわかります。
 私は季節の変化を愛し、北方的な人間だから、のろのろぬうとした樹木を見てもこわい方です。日向に青島というのがあり。どうかして太古に漂着して日向の海岸のその小島ばかり今も南洋の椰子棕梠を茂らせているところを見に行って、蛇がからまり合って立ち上ったような樹々を見て、動物的なのに大恐縮してしまったのを思い出します。
 動物的と云えば、上野に住んでいた猛獣たちは市民の平安のため処置されました。火、音響などによわいから。上野公園に昔平和博というのがあって、父は第一会場(上の方)をうけもち、いろいろ空想して自分の好きなサラセン模様の音楽堂などをこしらえました。美しいものでした。その時、紙屑入れとして場内に牧羊神《パン》の山羊の頭のついた紙屑入れをつくり、市の公園課が気に入って、ずっと最近までそれが鉄に白エナメルをかけて置かれていましたが、金だから献納になり、今は一匹も居ないそうです。国男さんが気づいて話しました。その晩床に入ったらこんな歌が出ました。

 最近二十何年間にたった二つのうたと云えば先ず珍品に属しましょうか。
『文芸』のNの「混血児」。久しぶりでこのひとの書いたものをよみ、ちびた細筆で不足の絵具でカスカスにかかれているスケッチを見た感じでした。小説かいていた時の、よかれあしかれ、非常に低い素質のものながらぽってりとのびのよかった筆致は失われました。よくうれて、よくかせぐが、根に新しい境地が拓けていず、本当には文学がそのひとなりの前進をとげていないでああなのですね。文学くさいのが却っていやですね。あいまいな、鈍い、小さいそのくせ作家意識から神経を張ったような書きかたで。
 尾崎士郎は「人生劇場」で浪花節のさわりめいた味を出したが、この頃、いろいろ経験したらその不用な感情の屈曲がとれて、感性が自分の脚で立つようになって、従って心情に湛える力が出来、同じながら火野のプロフェショナルにひねこびたのとは違った工合になって来ているようです。やっぱり細かいところで一人一人のちがいはあるものと感服いたします。
 きのうもレンブラントの話していて、本ものを見たときどんな気がするということから、例えばベラスケスなんか何と美しい芸術だろうと思うし、ヴァン・ダイクなど実に人間も着物もうまく描いてある、成程と感心しますけれど、レンブラントの大作を見たときは何だか其が描いてあるという感じなんかしなくて、――絵の限界が分らないのね――その世界がそこに在るという気持、自分がその中に我もなく吸いよせられる感じ、逆に云えば、見た、見ているという広々として人生的にリアルな感じしかないのです。
 これは何心なく話していて、自分でおどろきを新たにいたしました。レムブラントの内面のひろさふかさ、人生への誠実はそんなだったのね、不朽の大家たる全き本質です。
 いきなり人生にひきこむような文学は少い。トルストイがえらい、バルザックがえらいという、そのえらさが多くは文学という人生の一局面からだけ云われるのね。特に小さい人々の側からいう時。芸術家の時代の相違のみならず、バルザックよりはレンブラントが上です。フーシェ伝(ツワイク)をよむと、バルザックの世界の渾沌雄大醜悪可憐は即ちあの時代のものであったと思います。バルザックは芸術家として根本の態度に、真似ては今日の作家が迷路に入る要素があるが、レンブラントの態度は、時代の叡智に掘りぬける本質のものです。
 イタリーが盲爆で多くの古典美術を失いました。それらは世界の宝でした。惜しいことは実に惜しい。けれども明日のイタリーの人たちのためには果してどうでしょう。イタリーは過去の栄光が巨大すぎ、食いつくせない遺産の上に立って居て、ルネサンス以降現代迄が芸術上新しい宝を生む力を萎靡させていた大きな衰弱を自覚しませんでした。一九四一年に又もやレオナルド展が世界巡業を行ったことは、不滅というよりも「さまよえるダッチマン」のオペラ式で、おおレオナルドをして安らかに眠らしめよと、シェークスピアなら科白にかくべきところでした。多くのものが失われ、それを灰燼に帰した暴力は世紀の恥辱ですが、イタリーそのものについては、あんまりたっぷりした祖先の財産からすこし解放され、御家宝拝見料で食わなくなる方が将来清新な、その時代のイタリーの建設にふさわしい芸術が開花するかもしれません。少くともイタリーのひとが本当に自分の国の誇りについて考えたとき、そういう勇気にふるい立つ筈でしょう。
 この手紙の一銭の切手は、なかなかいじらしいでしょう、日本の切手に女の働き姿が現れた恐らく嚆《コウ》矢ではないでしょうか。

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ノイザールという私の薬、これからも買えそうでうれしゅうございます、利くから。
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 九月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(史蹟開成館の写真絵はがき)〕

 私が子供時分は、ここを村の人たちは「三階」と呼んでいて、村役場がありました。村役場につかったのこりの裏側の部屋部屋を人にかしていて、久米正雄母子はその松林に向ったところに暮していました。寿江子からの手紙によると、郡山の東に何里もある飛行場が出来かかっているそうです。トラックと軍靴の音が北へ北へと響くそうです。ずいぶんかわって来たとおどろかれます。 九月十日

 九月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(開成山の中條阿部両氏の記念碑と銅像の写真絵はがき)〕

 九月十日
 こんなものも私はまだ見たことがありません。郡山市読本というものにおじいさんのことがあって、私たちの知らない旧藩時代の勉学の閲歴などかいてありました。野上さんの息子がローマ大学の助教授なので、休戦したについて父さんの談話が出ていました。あっちに立派な能面や衣裳が行ったままになっていたのね。細川や蜂須賀所蔵の。緑郎夫婦の暮しも追々大きく変化することでしょうと察しられます。

 九月十日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月十日
 いまは、夜の九時。涼しい風が吹きとおします、お湯をあびて来てここに坐っていたら話したくなりました。
 きょうは、やや臥つかれたという御様子でしたね。無理もないと思います。いろいろと経験を重ねていらっしゃるから病気と闘う方法は会得していらっしゃるにしろ、ずっとお臥になって一ヵ月以上経ったのですものね。臥ていらっしゃる体がぎごちないというのは本当です。てのひらで撫でてほぐすべきところです、咲枝も丁度臥つかれた時分だわね、と衷心から云って居りました。
 そういう疲れかたは著しいにしろ、先、腸の病気のとき恢復しかかって初めて会って下すった時の、あの忘られない憔悴は今度ありません。あのときの憔悴というものは、全くひどくて今迄申しませんでしたけれど、あなたの濃い髪の色が赤っぽく変って、生えぎわから浮いてポヤポヤに見えました。今度は毛が脱けるかもしれないけれどもあんなすさまじいやつれはありません。ただ、あの病菌はやはりこわいと思います。疲れかたがやはり深く時間をかけて恢復しなければならないのですもの。
 そうやっていらして、悪い刺戟はないでしょうが、同時に、恢復のためにいい刺戟のうちに数えられる種類のことも少くてそれは不便です。私が癒るためにいい刺戟に不足していたと同じに。そのために時間をくうという点もあります。幸、今に涼しくなると、もう少し度々行くことも出来るようになり、あなたも体のもちかたが楽におなりになり、幾分はましとなりましょう。
 一寸お話していたとおりノイザールという薬は利いてこれ迄ずっといつも圧巻があって悲しかった頭のてっぺんが軽やかになりました。疲れが少くてよくなったこと、涼しくなったこと、薬が合うこと、あなたが安定を得て下すったこと、みんなそれは私の頭のてっぺんを軽
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