る情熱も、感情の化学においては等価値の原素としてみている、ということにツワイクは傾倒して居ります。しかし、これらの考えの中にはたくさんの未だ不明確なものがつめこまれていて、バルザックの所謂等価値論も、今日の理性は、やはりそこに十九世紀を見出します。ツワイクは一見客観的で、しかも十分客観的ではない観察力のために、自分たちの時代と自分の生涯というものを、真に歴史的には生きぬけなかったということが、「フーシェ」をよんでうなずけます。そして文学の世界のおそろしさ、そこにかかる霧のなかなか払いがたくて、惜しい人間の精神をも餌食にする力を感じます。文学なんかこそ、最も強健な精神の所産であるべきです。しかしツワイクは云わば、その自身の限界を極限まで書き、生き、死した文学者として、やはり十分に評価され、帽子をとって挨拶されるべき人間でした。彼は自身を箇人的に完成したものとして知りすぎていたのですね。歴史の歩幅は大きく一箇人の完成は現代において破れ得るものであり、破りかたに永い未来への命があるということは感じなかったのでしょう。彼の緻密さ動向観察、光彩、精神の高さは、ヨーロッパの昨日までの一高峰であったと思います。ツワイクが「流謫《るたく》こそは創造的天才をして、己の真の事業の視界と高さとを測らしめるものだ」という極めて感銘の深い言葉をフーシェについて書きつつも、自身の流謫的境遇を何故そのようなものとして、「眠ることを知らざる人間の意志の鍛錬されるところ」としてうけとれなかったのでしょうね。近い時代に文学者の死で、私たちに生きることを教えて人たちとしてバージニア・ウルフ。ツワイク。トルラーなどがあります。これらの人たちは自分たちをはぐくみ、自分が創造して来た昨日までのヨーロッパ文化のよかれあしかれ最良の分野の生存者でした。異様な形の入道雲を地平線にのさばらせつつ崩壊する旧文化とともに命を終った人たちです。
 いつぞやの『外交史』ね。私はフーシェをよむにつれ、アントワネットをよむにつれあの本がよみたいのよ。どうか上下二冊送るようにして下さい。ロベスピエールなど、又ナポレオンの外交、タレイランの外交をあの本はどう見ているでしょうか。ツワイクがナポレオンの活動の最も人類的高貴なのは、政権を統一し不換紙幣の整理をし、いらざる流血を終息させ、生産を興隆させた執政官時代であり、コルシカ人のフランスに対する復讐的虚無心にもえた弟たち妹たちの愚行と次第につのるナポレオンの好戦慾、勝利そのものへの乱酔が、遂に悪行となって没落したと、二つに分けているのは尤もと思います。長くなってしまったことね。ではお大事に。明後日はお目にかかります。

 九月四日 (封筒なし)

 九月四日
 きのうは何と大きい気持よい夕立だったでしょう。降りそうな雲の様子ではありましたが、あんなに堂々とふって。柔かい弾力ある雨粒が沛然と地面をうち、それは私の全身につたわり、その音や景色を眺めるうちに、段々気が遠くなってゆくようでした。つよい雨のリズムが脊髄に真直映って。私は何とも云えず快く疲れて、けさは何時間眠ったとお思いになって? 又無慮十三時間よ。
 知っている女の人が満州へ行くのでおせんべつの買いものに出かけなければならないのだけれども、何となしぽーとして坐っているの。八十六度ありますが、風は、さすが夕立の後で、というより二百十日のあとらしく秋の気勢です。
 きのうは小さい子供がどっさりいて、かたまって遊んでいるのを待つ間見ていました。子供が自分の親愛なものを何でも手を出してつかまえ口へもってゆくの面白いことね。うちの健坊もそうです。手と一緒に顔が出て行くのよ。口をとがらして。手につかまると同時に口へ入れるの。そして満足そうにして色ざしのいい口でしゃぶります。人間の自然な表現というものは何と素朴で、生きものらしくて肉体的でしょうね。好きというこころや可愛い思いなどというものは、本当に活々としたもので、それは心の動きそのまま行動で、子供たちやその子供を可愛がる母親なんか、一つ一つをみんな肉体的なものに表現しているのに感服します。土台そういうものなのよ、ね。
 火曜日は、前日に五ヵ月ぶりで用事が一段落し、それも初め考えて居たよりすらりとまとまったので、やっとのんびりした気分で、それをあなたにもおつたえしたい心持でした。ところが、それどころか、あの日は、まるで水浅黄の丸い雲の塊《かたまり》が寝台の横へおりたと思うと、エノケンの孫悟空の舞台の五色雲のつくりもの[#「つくりもの」に傍点]ではないが、忽ちスルスルと糸にひっぱられて消えてしまったというような工合でした。
 今までの本なんか、そのままでいい風です。文学の仕事だけをする分にはさしつかえもないことになるようです。でもこれは事情が錯綜している上、紙なしですから、いずれにしろごく内輪なことにしかならないでしょう。しかし冬にでもなってもうすこし体がしっかりしたら一日に時間をきめ仕事をはじめたいと思って居ります。八月末に大東亜文学者大会というのが(第二回)開かれ、支那の婦人作家が一人来たのを吉屋信子の家へよんで、婦人作家たちが「小さいお友達」のように(新聞の表現)歓談したそうで、写真が出て居りました。女の作家も外交官の下っぱの細君が考えたりやったりする位のつき合いかたを学んで来たのは結構かもしれませんが、文学の話は「小さいお友達」では無理だったのでもありましょうか。支那の文学と婦人の作家のことも私は本でわかる範囲だけでも知りたいと思って居ります。そんなことも冬になって疲れが直ってからのたのしみです。小説も。今は全く夏の疲れが出て居て意気地なしのところ。今日あたりからノイザールという燐剤の静脈注射をはじめます。神経にすこし肥料をやって眼の方をよくしたいし、頭のてっぺんの疲労感をとってしまいたくて。これまで、私は余り気分よい頭でありすぎたのかもしれないことね。その爽やかさ、疲れなさを忘れられず、どうしてもそこを標準にして健康をはかるものだから。
 きょうは、それでも思いかけず、愛用のボンボンが手に入り、これで当分しのげるとうれしゅうございます。あんまり久しぶりで口にふくみ、感動が深すぎて、あとからやっと味がわかるという工合よ。病気以来はじめてですもの。薬屋さんは親切に心がけ、いろいろ気を配ってくれていることはよく分って居りましたが、配給に時があるし、あの原料は貴重でなかなかなのです、御存知のとおり。私の体によくきく燐を主とした薬は全くこの頃欠乏です、どこにどう使われるのかしら。
 あなたがひどく憔悴なさらないうちに熱が落付いたのはほんとに何よりでした。前に体がいくらかしっかりしていらしたのも大助りでした。
 何と云っても体重も減りつかれていらっしゃるでしょうが、そろりそろりととりかえして行きましょう。これからは凌ぎよくもなりますし。
 でも、よかったことね。あなたは熱病をなさりやすいかと思って全くはらはらいたしました。隆治さんの無事なのもうれしゅうございました。きっとあのひとは一ヵ月に一度は書いているのでしょうが、こちらへ着く分が間遠くなるのでしょう。送るものそろえます。
『重吉漂流記』お送りいたします。弁次郎の方はよほど以前どこかの本やから出て、今は古本でもあるかしら。いつだったか叢書のように日本の海外漂流記と外人の日本漂流記とが出版されたぎりです。今なんか面白いでしょうのにね。本屋がつぶれたのかもしれません。
 おかしいこと。きょうはまだ眠いというのはどうしたわけでしょう。これを書いたらちょいと枕を出して、コロリとなり又眠りましょう、今週は月曜以来きのうまで割合出る用がつづいて疲れたのかしら。
 夕立があんまり見事に雄大で、それにうたれすぎたのかしら。露の重さというわけなのかしら。
 わたしのもんぺ姿は、丸さはともかくとして好評ですが、御感想いかが? これからはああいう風体のことも珍しくなくなることでしょう。帰りに靴を買いました。サメの皮よ。それで雨に弱いって可笑しいと云ったら曰く「やっぱり皮んなっちまうと駄目ですなア」

 九月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 九月八日
 さすがに八十度を越しても二三度という涼しさになりました。でも湿気のひどいこと。この頃は湿っぽさでやり切れない方です。
 先週は疲れが出てひどかったが、今週になってよほどましになり、尿もいくらか澄んで参りました。
 あんな位病気をすると、二三年は夏を特別用心するべきですね、来年は事情が許せばそのつもりでかかりましょう、今年は用事をぬきにしたって、私として何ヵ月も東京を離れる心持になれないところもあったわけです。一年近く御無沙汰した揚句には、ね。
 この頃は光線の工合がよくて、余り疲れていないと新聞の字もよめます。そして、これは大変私の毎日をたのしくいたします。何しろ今の世界の面白さこそかかる世に生れ合わしたる身の果報というべきところがあって、新聞は今の新聞なりに面白うございますから。本当に丈夫になり、眼もはっきりさせ、世界歴史の面白さを、面白さとしてうけとれるだけ丈夫になっていたいと思います。面白さの反面にある大した困難は明らかなことであり、あんまり自分の巣についてぬくまった人々は、そういう変化から又刺戟をうけて、本来の雄大な動きを見失うようですから。
 しかしながら、其につけても思うのは、一貫した生活態度――よく現実を見て、活々とそれに対応して、しかも原則をもった生きかた――のつよさ、効力、自立性というものを痛切に感じます。
 一つ一つよせてはかえす波にばかり目をとられず、潮を見られる人が船のりでありましょう。操縦されはじめると、人間も本質的には終りね。秀吉だって若いときはそうでもなかったでしょうが、老年になって螢《ホタル》が泣《鳴》く歌をよんだら、そろり新左が、螢が鳴いたということは天下にないとがんばって、すこしけんかめいて来たら、細川幽斎が、雨が降って鳴く虫は一つもいないのに螢ばかりが鳴いている、という古歌をもち出して、「されば螢も鳴くと見えます」などと云って操縦しました。それできげんを直すほどヤキがまわったから、あの始末ね。この話は、細川幽斎という人物を私たちにきらわせます。細川という殿様はこういう処世術をあの時代に珍しい学問にからめて持ち合わせていて、大大名として今も一番の金持華族です。細川といううちは政治に手を出さないのが慣わしの由。日本の美術蒐集では圧巻でしょう。春草の「落葉」は護立侯所蔵ですし。
 きのう、ふと活字が大きいのにひかされて谷崎の「盲目物語」をよみました。覚えていらっしゃるでしょうか、昭和七年頃。横とじの、吉野の手すき紙で装幀して横帙に入れた本よ。小谷の方と淀君の少女時代につかえた盲目の按摩、遊芸の上手が、信長の妹お市が、浅井長政の妻となり、兄の裏切りで良人を攻めほろぼされ、息子をころされ、清洲城にこもって十年暮したあと、本能寺の変後、柴田の妻となり、恋仇の秀吉に攻められ、娘三人(お茶々を入れて)を秀吉方へつかわして、自分は一年足らずつれそった勝家と城の天守で自尽するいきさつ。お茶々の短い後日譚を、おちぶれて宿場按摩になっているその男が物語った体です。
 谷崎らしく盲目の男の、美女である小谷の方とお茶々への感覚を絡めたり、当時流行の隆達節の考証をはさんだり、ともかく面白くよませました。しかしこうしてみると、谷崎の文学はもろいものですね。荷風の方が彼なりに粘っています。例えば例の「つゆのあとさき」、ね。あんなものにしろ、ともかく現代の、ああいう女給やそのひも[#「ひも」に傍点]の生活を見て、描写してかいています。「※[#「さんずい+墨」第3水準1−87−25]東綺譚」にしろ、冷やかで、独善で、すかないが、谷崎のように高野山あたりでのんきに納って、狐つきの話なんか、十年前に書いては居りません。
 谷崎のもろさは文学的に面白いことね、彼の文学上の下らない安易さ、もろさは彼の所謂悪魔主義が、この国の文化の性質らしく、ある
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