るしきまりがあるし、どんなにかああついそこと思うのでしょうが、よってゆくというわけに行かないらしいの。それが犇《ひし》といづみ子にわかるのよ、ね。ですからいづみ子にしろ並々ならぬ心持で、どこかそこを通っている好ちゃんの上を思いやるという次第でしょう、いくとおりもの家並や街筋やに遮られて、好ちゃんの歩いてゆくその道は見えないにしろ、いづみ子の胸に、あの爽やかで力にみち、よろこびにみちた姿が映らないというわけがありません。いづみ子は日本の女らしい、いじらしい表現でこんな風に云って居ります。
 わたしは日高川の清姫ですから(ユーモアもあるから、大したものよ)自分のからだで海も山も越すことはいといません。けれども、あのひとのおかれている義務のことを考えると、わたしが身をもむようにしたら却ってどんな思いでしょうと思われて、ほんとに私は行儀よいこになります。あのひとは(いづみ子は一番いとしいものの名は、やはり口に出せないたちの女なのね)それがわかって居るとお思いになりますか。あやしいと思うのよ。敏感だけれども鷹揚《オーヨー》なような気なのですもの。(私が思うに、これはいづみ子の感ちがいね。あなたも私に御同感でしょう? 好ちゃんという人物は相当なものですから、自分の腕のなかにゆったりといづみ子を抱括していて、一寸した彼女の身じろぎだってそれはみんなちゃんと感じとられ応えられているのだわ。いづみ子の表現は、計らず、彼女の愛くるしい慾ばりぶりを率直に示して居て面白く思われます)
 いずれ好ちゃんもたよりよこしましょう。私の方へよりもあなたのところへ書くかもしれないわね、その方が自然でしょうからね。幼な馴染などというものは、世間では惰性的結合になって新鮮さを失いがちですが、あの二人は全然ちがって、二人で感情に目ざめ、育て合い、日々新なりという工合らしいから、つまりは一組の天才たちなのかもしれないわ。昔のひとが良人は天、妻は地なりと云うことを申しましたが、そういう宇宙的献身の見事さや潤沢さは、むしろディオニソス風の色彩のゆたかさで、しかも近代の精神の明るさに貫かれ、全然新種の人間歓喜の一典型でしょう。私も小説家に生れたからには、あますところなくそういう美しさ、よろこび、光について描きたいことね。そういう美は、そのものとして切りはなされて在るのではなくて、全生活行動の強大な脈うつリズムとともにはじめて生命にあふれて表現されるのですから。その純潔な輝やかしさは、露のきらめきさながらね。
 露のきらめきと云えば、前の手紙で、詩を見つけたことお話しいたしましたね。「わが園は」という題の作品なのよ。どちらかというと風変りなテーマです。ほんとはそれを書こうと思ったのに、つい、いづみ子の噂を先にしてしまったらもう七枚にもなりました。つづけて、然し、別の一通として書きましょう。好ちゃんのたよりはお目にかかって伺います、今あなたは手紙をお書けになれませんものね。呉々も体の動かしかたに御用心を。

 八月二十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 八月二十七日
 前ぶれの長かった「わが園は」の話いたします。テーマはいくらか風変りで、支那の詩にでもありそうな情趣です。
 人気ない大きい屋敷の夏の午後です。しげり合った樹木の若葉は緑金色に輝やいて、午後はもう早くありません。一人の白い装をした淑女が、だれもつれず、こまかい砂利をしきつめた道にわが影だけを従えてゆるやかに歩いてゆきます。ゆく手は庭園の一隅で、こちらから見たところ糸杉がきっちり刈りこまれ夏の大気に芳しく繁っているばかりです。白い姿はその緑の芳しい牆《かきね》のかげに消えますが、そこ迄行ってみると、糸杉は独特な垣をなしていて、丁度屏風をまわした工合に、一つからもう一つへと白い影を誘い、やがて一つの唐草模様の小さい扉まで導きます。白い装いの人は、永い病気から恢復して、はじめてこの午後の斜光の中を愛する園を訪れたのですが、美しい柔かい旋律のうたは、この扉を今開こうとするときの堪えがたい期待と、あまりの美しさが、自分をうちまかしはしまいかというよろこばしいおそれとからうたいはじめられています。
 扉は開こうとし、しかし未だ開かれません。何が扉の蝶番《ちょうつがい》を阻むのでしょう。園の花の息づきはつよくあたためられた大気にあふれてもう扉を押すばかりですし、唐草格子のすき間から眺められるのは、ほかならぬ愛蔵の蘭の花です。それは蘭の花の園なのでした。
 金色にあたたまり溶ける光の中に花頭をもたげ、見事な花柱を立てて、わが蘭の花はいのちの盛りに燃えているのを、白いなりのひとは知っています。
 扉は開くかと見えて開きません。何がその蝶番をはばむのでしょう。蘭の花は半ば開き、極めて緻密な植物の肌いっぱりに張り、しなやかにリズムをたたえて花脈を浮き立たせています。蒼空のゆるやかなカーヴを花柱の反《そ》りがうつしているようです。濃い紅玉と紫水晶のとけ合わされたような花の色どりは立派で、ぐるりに配合された白いこまかな蝶々のような同じ蘭科の花々の真中に珠と燦いて居ります。渋いやさしい眠りに誘うような香気がその高貴な花冠から放散されます。風も光も熱もその花のいのちにおのれのいのちを吸いよせられたかのように、あたりにそよふく風もありません。あるのは香気と光りとばかり。ああわが園の扉は開くかと見え。たゆたう瞬間の思いをうたっているのです。
 詩は、断章です。小説ではないからその白い夏の午後のひとが、遂にその園に入り、その光の上に面を伏せ、自分のいのちの新しさと花のいのちのためによろこび泣いたかどうかということは描かれて居りません。詩をつくった人も、それは時にゆだねて描写しなかったのかもしれません。
 作家とテーマのような作品をつくった詩人に、こういう隠微なたゆたいの詩があるというのも興ふかいことです。わたしはこの詩の味いを好みますが、ひどく気に入っていることは、それがきっとあるままのことなのでしょうが、詩人がその蘭の花の美しさを描くに全く気品たかくて、燦然ときらめく花冠を光のうちに解放しているだけで、ありふれた蝶や蜜蜂をそのまわりに描いていないことです。古い美味な葡萄酒のように花の姿はかっちりと充実し、舌の上に転ばす味の変化をふくみ、雄勁です。花への傾倒は感傷するには余りゆたかという風趣なのです。その味いも決してゆるんだ芸術品には見出せません。健全な大きい陶酔が花をめぐって流れ動いていて、それは自然そのままの堂々とした横溢です。
 雨あがりの午後の光線は、この詩の中のとけた金色に似て樹の葉の上に散って居ります。私は自分のゆるやかながらつよめられている鼓動を感じます。
 伸々と横になっていらっしゃるあなたの手脚に、こんな一篇の詩の物語はどんな諧調をつたえるでしょう、それは気持のよい掌のようであればいいと思うの。

 八月二十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 八月二十九日
 きょうは、はじめて午後の二階が八十六度足らずです。庭で、ホラホラ鬼《オニ》(蚊のかえりかけ)とボーフラ、グロッキーになった! と太郎と咲枝の声がしています。防火用の大きい大きい桶の水が青桐の下に出来て、そこから猛烈に蚊がわくので、その戦いにいろんな薬を試み、ちっとも成功しなかったのに、やっと硫黄の薬(温泉の湯ばな)を見つけて、まいて見たというわけです。昨夜、国男一ヵ月ぶりに帰京しました。東京のじっとり暑いのに参ると云って、きょうは長い顔をしておとなしゅうございます。
 その後いかがでしょう、熱はずっと落付いて居りますか。すこしは味がわかって召上れますか。眠れればよいが、と思います。体のよくないときの夜は何と明けるのが待ち遠しいでしょう。特に夏なんか。ひとの寝息をきき乍ら起きているのは苦しいことね、去年経験いたしましたが。一緒におきている人がいたらたのしかろうと思うことね。そういうとき。
 私は眼の方は「異状なしで」時を待たねばならず、ということでわかりましたが、すこし尿が妙で、きょうお医者に相談いたします。疲れのせいと思っていたが、疲れが、こんなに眠っても軽快にならず、尿はまるで糠《ぬか》味噌を水にあけたような工合だから変ね。しかし悪性の腎《ジン》臓は目に出ますから眼底をあんなに検査してどうもなかったのだから、私のこんな疲れかたもやはり「不正型」かもしれないわ、新型の、ね。いずれにせよ、安静を心がけて居ります。どうか御心配にならないで下さい。私の方はいろいろやらなければならないなら、其の出来る条件なのですもの。よく調べてみますから。
 詩の話いかがでしたろう? お気に入ったところもあったでしょうか。(あら、呼んでいるわ)
 今お医者が来ました。やはり疲労で酸が何か変化するのだろうということです、明日検査して貰いますが。大体そんなことなのでしょう。
 今ポツポツとツワイクの「ジョゼフ・フーシェ」というフランスの政治家の伝記をよんで居ります。大変面白い本です。フーシェは大革命の当時からナポレオン時代を通じて活躍した男ですが、彼の特長は全くの無節操無徳義であり白昼公然の裏切りであり、しかも実行力にとんでいて人心の帰趨を観るに敏であった男であります。ロベスピエールを裏切り、ナポレオンを思うままにいやがらせ、当時のフランスの世情の紛糾していたことが可能にした、あらゆる表裏恒ならぬ術策を弄した男です。バルザックがこの人間をその無節操の力のおどろくべき点から描いている由、それからツワイクの興味は目ざまされたのだそうです。フーシェの動きかたの背景としてナポレオン出現時代のフランスの分裂と堕落がよくわかり、ロベスピエールという偏執的潔癖家が、大なる新しい力を余り観念的に純潔に守ろうとしてギロチンにばかりたよって、逆に急速にリアクションを助成し、それに乗じてフーシェがロベスピエールの首をおっことしてしまうところ、なかなか大した歴史の景観です。ロベスピエールたちは議論議論で、しかも大した観念論でやっていたのね。フーシェはそういう弱点にうまくつけ入った男です。裏切ったが、自分のために、ツワイクの云い方ですればバクチの情熱のために冷血なので、自分が安穏にはした金で飼われるのが目的ではなく、同じ無節操の標本であるナポレオン時代の外務大臣タレイランが享楽を窮局の目的としたのとは又違う姿がよく描かれています。
 そして、私に又多くのことを考えさせるのは、著者ツワイクのこういう人物の見かたです。なかなかよく客観的に見ているのですが、しかしツワイクはフーシェのような人物の存在し得た時代の本質については、決して十分把握して居りません。ロベスピエールのような男、卓抜な男が、何故当時にあっていつも大言壮語美辞を並べ、武器としてはギロチンしかなかったか、それで通用ししかも其に倦きた当時のフランスの大変動の歴史的本質。そこにこそフーシェはつけこめたのであるという、存在の可能の意味を明かにしていません。それよりもう一皮二皮上の、人間の時代的関係、めりはり、利害の上にフーシェの存在の可能をおいて居ります。これは著者にとって致命的な点です。何故なら、ツワイクは夫婦で自殺したのですから。二三年前。あれほどの歴史家、評伝家が、どうして今世紀におけるオーストリアの運命や自分に向けられる非人間的強力やについて、史的達観をもち得なかったかということは、おそらく世界中の彼の読者の遺憾とするところでしょう。その内部の原因を知りたいと思って居りました。
「アントワネット」は大戦中にかかれ、「フーシェ」は一九二九年ザルツブルグで書かれて居ます。序文にツワイクは、一九一四――一八年の大戦も「理性と責任から行われたものでなくて甚だいかがわしい性格と悟性しかもたない黒幕的人物の手によってなされたのである」そういう賭博に対し自己防衛のためにもフーシェのような歴史的黒幕人物、所謂外交家の見本を心理学的生物学として研究しておく意味があると云って居ります。バルザックが彼の小説で、英雄的情熱も陋劣と云われ
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