とおしい愛惜してあまりある時間の枠に規正されている命をもちながら、ほんとにのんきに、無内容に、動物としての命の動きのままに動かされて、大ボラをふいたり、大ウソをついて威張ったりして、動物のしらない穢辱と動物のしらない立派さの間に生き死にしてゆく姿は、何と滔々たるものでしょう、その滔々ぶりに、人間万歳の声を声を[#「声を」に「ママ」の注記]あげる人もあるわけでしょう。そして又、人間だけが、現実の大きな虚偽の上に、真心からの感激と献身をもって死に得る可憐なるものです。逆にいうと、人はどんな人でも、命をすてるときには、その命に、自分で納得し得る最大の価値を感じて死のうとするいじらしい、人間らしいところをもっているのね。無駄に流れて来た時間の或る瞬間、駭然として無駄であり得ない死を感じる人間の心は、非常に私たちを考えさせます。そういう瞬間に会わないと、活《カツ》の入らないような心で、作家たちさえも生きて来ていて、そういう瞬間の自覚を人間性の覚醒、生の覚醒という風に感傷するのね。昔、川端康成が、北條民雄の癩病との格闘の文学を、ヒューマニズムの文学、生の文学と云って、私は川端の甘さを不快に思った激
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