今日の大家の初期の作品が良くて、現在どんなに芸術家としては生き恥をさらしているかと云うことを感じさせるものが少くなかった由、人間が一人前になる迄には実際、水をくぐり、火をくぐりですね。
昨日、私はアアチャンにつかまって二三丁の処を出初め致しました。みんなが梯子がなくってお気の毒とからかいました。足どりはノロノロながら確実ですが、道路や家や、人のかおの反射がひどくて、どうも色目鏡がいりそうです。早速、衛生学を振りまわし、午後四時過ぎ、通る処は日陰になってから出かけましたが。もう一つ可笑しいことがあります。一週間ほど背中の肝臓の裏の処が筋肉的に痛くて、フトもと肝臓をやったときのことを思い起し、だいぶえらいめに合わせたから、と神経をたてていたところ、今夜、例によってみんなの御飯をつけてやろうとしていたら、その時、椅子の上で体をねじり丁度其処の処がねじれるのが判りました。体が弱い時には何と云う小さいことがおかしな結果を起すのでしょう。スエコさんと場所を代り、それで私の肝臓病も病源をあきらかにしたと云うわけです。ずっと私は其処に坐って、アッコオバチャンらしく、例えまざった御飯にしろ美味しいようにみんなによそってやっていたのよ。私は御飯をよそうのが好きなの。お風呂の火をたくことも。
今日あたりは空気もやわらいで、もうこの調子でしょう。お金、とりあえずちょんびり送り、明日少しまとめてお送りします。薬、まだよいでしょうか。又少しためてお送りしておいた方が安全ね。
三月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 都鳥英喜筆「戦傷士の俤」の絵はがき)〕
『衛生学』はもう十一月頃出版されていてそれを只今本屋に注文中です。教材社からは二月中旬にお金を返してきました。第一書房の方はおっしゃるとおりに申してやりましょう。手紙の方へ落したので追加の返事いたします。これも名作展に出ていた一つ。近頃のガタガタの画になれた眼でみると日本人が描いたものかと驚く位です。気候がゆるみましたがお風邪は大丈夫ですか。今年はいつもと違って最近のうちに敷布団の取り変えなどはしておいた方がよさそうです、そのお心づもり下さい。
三月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 川村清雄筆「画室」の絵はがき)〕
三月九日(2)
この画家の大きな絵が食堂にかかっていて、もし爆風をくらえば額の重さとガラスの破片だけで子供の一人や二人は結構片附くから危いことのないうちに処分しようと言っています。もう暫らくすると自分で書けるようになるから、そしたらこの三つのお手紙にたまっている家事的な御返事を致しましょう。かなり細かく知っていただきたいこともありますから。平ったく押してくる火事で、こげはしないが天から直通ではどこへ飛ぶかわからないから、百合子飛散の後でも現実の用事だけは残りますからね。島田行きのこと、私も行きたいけれども秋以後のことと考えて置いた方がよさそうでまだ充分丈夫でないことの他もっと理由がありますが、それは何《いず》れ手紙で書きます。わけはお母さんにも申せばすぐおわかりで私の考えに御賛成下さることです。
三月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書 書留)〕
十三日
十二日づけのお手紙をありがとう。
体の工合は大分ましになりました。まだ疲れがのこっているけれども。床はしいてありますが、夕飯などは下へ行って皆とたべて居ります。この間一寸歩いたというようなことは直接さわってはいず、寧ろ、この間うちから、何しろ未曾有の春ですから、あれこれと頭をひねって心労もしたりしたのが幾分こたえたのでしょう。何しろあんまり馴れていないことですから。それこれも順調にはかどったから安心で、もうのんきになれます。自分だけのことで、あせったりはしないのよ、何を早くどうしようなどという点では御心配無用です。
きょうは、一寸代筆では困ることだけ、こんならんぼうな手さぐり字で申上げます。
あちらへ行くことは御親切もわかり、いいこともわかりますが、私としては空からの不安のなくなった(大体)季節でないと困ります。そのわけは、徳山、光は全く特殊な性質の都市ですから、そういうことになれば直ちに戒厳状態に入ります。今でさえも半分はそうで、親の御機嫌伺いにゆくのにもう次の日はオートバイで室積からわざわざ来てスケジュールをきいて何日にどこへ行くかという次第です。達ちゃんの御祝儀で何とかいう町の料亭へ行ったときは、制服のひとが敬意を表するために来てくれて、別室へあがって面会をしなければなりませんでした。何時にどのバスでどこへ誰と行ったということ迄一々で大した名士なのよ。だから私はいつも全くうんざりです。土地の風で女が昼間散歩するということはないからとお母さんも気をおつかいになるから
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