身に付けている所謂女優らしさをはっきり見ていて、大向うの喝采や、新聞の批評や、花たばの数などに敏感なのをはっきりたしなめて、いつも彼女が自分を掴んでいるように、自分の演技を持つようにと励ましているのを読んだことがあります。チェホフはクニッペルをいつも「私の可愛い馬さん」と呼んで手紙に書いているけれど、その本にもそんな風に書かれて居りますか。チェホフは、人間の程度の差からクニッペルに対して随分甘やかした表現もしているけれども、芝居のこととなればなかなか厳しくて、よしんばクニッペルが内心おだやかならず、人の花輪を横目でみたとしても、旦那さんに手紙を書くときは、流石《さすが》に真先きにそのことは書けず、自分として何処まで突込んで演じられたかと云う点から自省しなければならなかったでしょう。それは彼女に大変ためになっていました。チェホフが亡くなって後、彼女はどんなにその教訓を生かして自分を高めてゆけたかと云うことに就ては知りません。芸術座で見た頃の彼女はひどく平凡でした。
ヤルタのチェホフの家は、南欧風の窓があって、庭もひろく、机の上には、象牙の象が幾つも並んでいました。いろんな写真がどっさりあって、細々とした感じの書斎でした。彼の生れたタガンローグの町は、アゾフ海のそばで、ロストフのそばで、其処にある家はいかにも小さな屋台店の持主らしい、つつましい四角い小家でした。黒海をゆっくり渡って、ヤルタへ上陸して、耳にネムの花を差して、赤いトルコ帽をかぶったダッタンの少年がロバを追って行く景色などを見ると、この辺が古い文化の土地でギリシャや、ルーマニアの影響をもっていることを感じました。山の方に行くとダッタン人の部落があって、せまい石の段のある坂道の左右に、清水の湧く、葡萄棚の茂ったダッタン人の家があります。日焼けした体に、桃色のシャツを着た若い者などは、いかにも絵画的です。ヤルタから、セバストーポリまでは、黒海の海岸ぞいのドライヴ・ウエイで、その眺望は極めて印象に強く残ります。黒海という名のあるだけ、この海は紺碧で、古い岩は日光に色々に光って松が茂り、そのかげには中世の古城が博物館となっていました。セバストーポリの町に入る手前に街道が急カーヴしている処があって、其処に一つ大理石のアーチが立っています。ヤルタの方から来るとそのアーチは、まるで天の門のように青空をくぎって立って居り、其処をくぐってセバストーポリの古戦場の曠野の方からそっちをふり返ると、同じように道は見えず、四角いアーチが空に立っていて、その感じは実に独特でした。不思議な哀愁を誘います。セバストーポリもヴェルダンも遠い彼方に山々が連って、まわりは広茫とした平野で、新市街はずっとその先にあります。ヴェルダンなどは全く「白い町」で、今日生きている人の住んでいる処と云えば、小さい川っぷちや、停車場前のほんの一つかみのものです。あとは無限に広く、暗く、寂寞のうちにあります。バクーから黒海岸へ出る夜汽車の中で頭に羊皮帽をのせた人達が手ばたきをして歌を唱い、一人が車室のランプの下で踊っていたのも思い出します。スターリングラードのホテルも思い出します。その道も。波止場も。ハリコフの賑かな小ロシア風な町の様子も。
日に直接あたらないようにと云う御注意、ありがとう。樹木の少ない高原や、眺望の広すぎる処は、目に悪いと考えていましたけれど、本当に春さきの日に、呑気に照されて、またひっくりかえったら大変ね。人より早く「吾は傘をさそうぞ」と云うわけね。たかちゃんのことに就ても色々考えます。そのことも御相談しようと思ったけれど、今日は予定外の話になって長くなったから、またこの次ね。風邪をひくなと云って下さったけれど、もうひいてしまったわ。あなたはどうぞ御大切に。
二月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
二十日づけのお手紙ありがとう。十三日にはやっぱり好物ボンボンのこと思い出していて下さいましたね、ありがとう。
冴えかえった春寒でペンさんが病気になり、とりあえずこんな手紙さしあげます。衛生学のこと、きけずにいるので御返事出来ず御免なさい。
今お目にかけたいものがあって例の如くポツリポツリと書いて居ります。この節は少し外があるきたくて、この寒さがすぎたら先ず手はじめに動坂のばら新でも見に行こうとたのしみにして居ります。電車にのる稽古もいたします。のりものへは一人でのることはしませんから御心配ないように。
隆治さんからハガキが来てうれしゅうございます。マライです。マライ語の本注文しましたから、来たら又お茶や薬やと一緒に送りましょうね。消しだらけのハガキですけれども、無事でともかく着いたとわかって本当にうれしいと思います。写真立派な顔でしょう?
何ごとかを生きて来た人間の立派な
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