して、蹴こわして、火をつけました。往来の真中でやったのよ。そしたら留蔵がかえって毒気をぬかれて、もうよかっぺと云って、仲なおりした逸話があります。その婿で今日では翼賛会の青壮年団長、促進員、隣組長と云う、流行男ですが、相当なもので、炬燵にあたりながら、一夕気焔を拝聴して大変ためになりました。面白かったし。開成山辺が工業都市に成って行く勢のひどさは野原が工場町となった変化に勝るとも劣らないらしく、家などは宅地は残るが、ぐるりはみんな中島製作所、三万人の従業員のための住宅地と指定されているそうです。現在でも、もう射撃の音や、飛行機の音が一杯で、その男の隣組、十何戸かのなかで、お百姓さんはその男の他一人だそうです。あとは小勤人、商人、軍人だそうです。この夏は、まだ一人で読み書きが無理らしいから、開成山など、みんなで暮すためにはいいのだけれども、島田や光井での経験を思い出すと気が渋ります。呑気に、招かざる客の来訪なしに保養したくてね。昔の桑野村と何と云う違いでしょう。その変りかたは興味深く、例えばこの佐藤などを活き活き書けたら、全くたいしたものだと思います。そして、それは私の第一作の歴史に従った展開なのだけれども。とつ追いつです。長く滞在するには良い折ではあるけれども。
 語学のことで、橋のない川と云うお話をきき、私は些かあわてます。何故なら私は橋ばかり頼っていたし、時にはひどい丸木橋を危く渡って用達しして居たようなものだから。あなたが川を泳いだら私は土堤を馳廻って、それでは困るわね。あなたの泳ぎは私を溺らさないで引張って行って下さるだけ、上達の見込がありますか。私のは気合語学だから、顔を見てエイヤッとやれば用は足りていたけれど、困ったものね。これは真面目な話よ。お考えおき下さい。小説を書くのには語学はたいして必要でもないように思えたが、評論の仕事ではもうその必要が判って来ます。他の専門なら大人らしい仕事に入るやいなや、必要の差迫ることでしょう。日本の文学者が少し語学が出来ると、すぐ種本|漁《あさ》りをするのを軽蔑したりする気持もあってね。然し、私は語学向きのたちではないから弱ります。サンドの作品は訳されているのはあれだけです。ところがこれからは岩波文庫で増刷するのは、『古事記』や何かの他は『即興詩人』と『ファウスト』、位なものだそうです。ほかの文庫類もその標準で無くなって行く様子です。想像出来ないようでしょう?
 文庫が数冊あれば食べてゆけたと云った時代、M・Yのように金持にまで成った男は呆然として消え去る財源を見守るでしょう。作家がちゃんとした仕事をして、ちゃんと暮せると云うのは理の当然だけれども、作家になって成り上ると云うのも何だか少し変な気がするわね。作家となれば金の使いかたもいくらか普通とは違った道がありそうに思えるけれども、いざ持ってみると誰でも買うようなものを買って、しまいには家や地べたでも買っておさまるのは奇妙なものね。どうせそうなるなら、始めから金を目当てに何かやった方が良さそうにさえ思えます。そうゆかない所が人間の面白さ、くだらなさ、気の毒さなのかもしれないけれど。人間の新陳代謝の速力は意外にも早いのね。役に立つのは、十年前後と云うような人々の生涯もあるのですね。そんな風に、色々なものから消耗されるのですね。消耗なしに樹木でさえも育てないと云うのは、自然のきびしい姿です。
 今日これに追かけて、一寸した送りものを差上げます。
 どの部屋も同じような寒さだから、かえって今年は風邪をひく者が少なくて笑って居ります。

 二月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

   月明のうた。

 月がのぼった。
 金星を美しくしたがえて
 梍《さいかち》の梢を高く
 屋根屋根を低く照しつつ。

 どの家もおとなしく雨戸をしめ
 ひっそり
 甍《いらか》に月光をうけている。

 なかに ただ一つ
 我が窓ばかりは
 つたえたい何の思いがあるからか
 月に向って精一杯
 小さな障子をあけている。

 いよいよ蒼み 耀きまさり
 月も得堪えぬ如く
 そそぐ そそぐ わたしの窓へ
 満々として 抑えかねたその光を

 ああ今宵
 月は何たる生きものだろう

 わたしは燦《きらめ》きの流れから
 やっとわが身をひき離し
 部屋へ逃げこみ襖をしめる
 こんないのちの氾濫は
 見も知らないという振りで。

 けれど
 閉めた襖の面をうって
 なお燦々とふりそそぐ 光の音は
 声ともなって私をとらえる

 月の隈なさを
 はじめてわたしにおしえたその声が
 今また そこにあるかのよう。

  一月二十三日

 二月十九日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 二月十七日
 十六日の御手紙ありがとう。
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