て、そこから猛烈に蚊がわくので、その戦いにいろんな薬を試み、ちっとも成功しなかったのに、やっと硫黄の薬(温泉の湯ばな)を見つけて、まいて見たというわけです。昨夜、国男一ヵ月ぶりに帰京しました。東京のじっとり暑いのに参ると云って、きょうは長い顔をしておとなしゅうございます。
 その後いかがでしょう、熱はずっと落付いて居りますか。すこしは味がわかって召上れますか。眠れればよいが、と思います。体のよくないときの夜は何と明けるのが待ち遠しいでしょう。特に夏なんか。ひとの寝息をきき乍ら起きているのは苦しいことね、去年経験いたしましたが。一緒におきている人がいたらたのしかろうと思うことね。そういうとき。
 私は眼の方は「異状なしで」時を待たねばならず、ということでわかりましたが、すこし尿が妙で、きょうお医者に相談いたします。疲れのせいと思っていたが、疲れが、こんなに眠っても軽快にならず、尿はまるで糠《ぬか》味噌を水にあけたような工合だから変ね。しかし悪性の腎《ジン》臓は目に出ますから眼底をあんなに検査してどうもなかったのだから、私のこんな疲れかたもやはり「不正型」かもしれないわ、新型の、ね。いずれにせよ、安静を心がけて居ります。どうか御心配にならないで下さい。私の方はいろいろやらなければならないなら、其の出来る条件なのですもの。よく調べてみますから。
 詩の話いかがでしたろう? お気に入ったところもあったでしょうか。(あら、呼んでいるわ)
 今お医者が来ました。やはり疲労で酸が何か変化するのだろうということです、明日検査して貰いますが。大体そんなことなのでしょう。
 今ポツポツとツワイクの「ジョゼフ・フーシェ」というフランスの政治家の伝記をよんで居ります。大変面白い本です。フーシェは大革命の当時からナポレオン時代を通じて活躍した男ですが、彼の特長は全くの無節操無徳義であり白昼公然の裏切りであり、しかも実行力にとんでいて人心の帰趨を観るに敏であった男であります。ロベスピエールを裏切り、ナポレオンを思うままにいやがらせ、当時のフランスの世情の紛糾していたことが可能にした、あらゆる表裏恒ならぬ術策を弄した男です。バルザックがこの人間をその無節操の力のおどろくべき点から描いている由、それからツワイクの興味は目ざまされたのだそうです。フーシェの動きかたの背景としてナポレオン出現時代のフランスの分裂と堕落がよくわかり、ロベスピエールという偏執的潔癖家が、大なる新しい力を余り観念的に純潔に守ろうとしてギロチンにばかりたよって、逆に急速にリアクションを助成し、それに乗じてフーシェがロベスピエールの首をおっことしてしまうところ、なかなか大した歴史の景観です。ロベスピエールたちは議論議論で、しかも大した観念論でやっていたのね。フーシェはそういう弱点にうまくつけ入った男です。裏切ったが、自分のために、ツワイクの云い方ですればバクチの情熱のために冷血なので、自分が安穏にはした金で飼われるのが目的ではなく、同じ無節操の標本であるナポレオン時代の外務大臣タレイランが享楽を窮局の目的としたのとは又違う姿がよく描かれています。
 そして、私に又多くのことを考えさせるのは、著者ツワイクのこういう人物の見かたです。なかなかよく客観的に見ているのですが、しかしツワイクはフーシェのような人物の存在し得た時代の本質については、決して十分把握して居りません。ロベスピエールのような男、卓抜な男が、何故当時にあっていつも大言壮語美辞を並べ、武器としてはギロチンしかなかったか、それで通用ししかも其に倦きた当時のフランスの大変動の歴史的本質。そこにこそフーシェはつけこめたのであるという、存在の可能の意味を明かにしていません。それよりもう一皮二皮上の、人間の時代的関係、めりはり、利害の上にフーシェの存在の可能をおいて居ります。これは著者にとって致命的な点です。何故なら、ツワイクは夫婦で自殺したのですから。二三年前。あれほどの歴史家、評伝家が、どうして今世紀におけるオーストリアの運命や自分に向けられる非人間的強力やについて、史的達観をもち得なかったかということは、おそらく世界中の彼の読者の遺憾とするところでしょう。その内部の原因を知りたいと思って居りました。
「アントワネット」は大戦中にかかれ、「フーシェ」は一九二九年ザルツブルグで書かれて居ます。序文にツワイクは、一九一四――一八年の大戦も「理性と責任から行われたものでなくて甚だいかがわしい性格と悟性しかもたない黒幕的人物の手によってなされたのである」そういう賭博に対し自己防衛のためにもフーシェのような歴史的黒幕人物、所謂外交家の見本を心理学的生物学として研究しておく意味があると云って居ります。バルザックが彼の小説で、英雄的情熱も陋劣と云われ
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