もにはじめて生命にあふれて表現されるのですから。その純潔な輝やかしさは、露のきらめきさながらね。
露のきらめきと云えば、前の手紙で、詩を見つけたことお話しいたしましたね。「わが園は」という題の作品なのよ。どちらかというと風変りなテーマです。ほんとはそれを書こうと思ったのに、つい、いづみ子の噂を先にしてしまったらもう七枚にもなりました。つづけて、然し、別の一通として書きましょう。好ちゃんのたよりはお目にかかって伺います、今あなたは手紙をお書けになれませんものね。呉々も体の動かしかたに御用心を。
八月二十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月二十七日
前ぶれの長かった「わが園は」の話いたします。テーマはいくらか風変りで、支那の詩にでもありそうな情趣です。
人気ない大きい屋敷の夏の午後です。しげり合った樹木の若葉は緑金色に輝やいて、午後はもう早くありません。一人の白い装をした淑女が、だれもつれず、こまかい砂利をしきつめた道にわが影だけを従えてゆるやかに歩いてゆきます。ゆく手は庭園の一隅で、こちらから見たところ糸杉がきっちり刈りこまれ夏の大気に芳しく繁っているばかりです。白い姿はその緑の芳しい牆《かきね》のかげに消えますが、そこ迄行ってみると、糸杉は独特な垣をなしていて、丁度屏風をまわした工合に、一つからもう一つへと白い影を誘い、やがて一つの唐草模様の小さい扉まで導きます。白い装いの人は、永い病気から恢復して、はじめてこの午後の斜光の中を愛する園を訪れたのですが、美しい柔かい旋律のうたは、この扉を今開こうとするときの堪えがたい期待と、あまりの美しさが、自分をうちまかしはしまいかというよろこばしいおそれとからうたいはじめられています。
扉は開こうとし、しかし未だ開かれません。何が扉の蝶番《ちょうつがい》を阻むのでしょう。園の花の息づきはつよくあたためられた大気にあふれてもう扉を押すばかりですし、唐草格子のすき間から眺められるのは、ほかならぬ愛蔵の蘭の花です。それは蘭の花の園なのでした。
金色にあたたまり溶ける光の中に花頭をもたげ、見事な花柱を立てて、わが蘭の花はいのちの盛りに燃えているのを、白いなりのひとは知っています。
扉は開くかと見えて開きません。何がその蝶番をはばむのでしょう。蘭の花は半ば開き、極めて緻密な植物の肌いっぱりに張り、しなやかにリズムをたたえて花脈を浮き立たせています。蒼空のゆるやかなカーヴを花柱の反《そ》りがうつしているようです。濃い紅玉と紫水晶のとけ合わされたような花の色どりは立派で、ぐるりに配合された白いこまかな蝶々のような同じ蘭科の花々の真中に珠と燦いて居ります。渋いやさしい眠りに誘うような香気がその高貴な花冠から放散されます。風も光も熱もその花のいのちにおのれのいのちを吸いよせられたかのように、あたりにそよふく風もありません。あるのは香気と光りとばかり。ああわが園の扉は開くかと見え。たゆたう瞬間の思いをうたっているのです。
詩は、断章です。小説ではないからその白い夏の午後のひとが、遂にその園に入り、その光の上に面を伏せ、自分のいのちの新しさと花のいのちのためによろこび泣いたかどうかということは描かれて居りません。詩をつくった人も、それは時にゆだねて描写しなかったのかもしれません。
作家とテーマのような作品をつくった詩人に、こういう隠微なたゆたいの詩があるというのも興ふかいことです。わたしはこの詩の味いを好みますが、ひどく気に入っていることは、それがきっとあるままのことなのでしょうが、詩人がその蘭の花の美しさを描くに全く気品たかくて、燦然ときらめく花冠を光のうちに解放しているだけで、ありふれた蝶や蜜蜂をそのまわりに描いていないことです。古い美味な葡萄酒のように花の姿はかっちりと充実し、舌の上に転ばす味の変化をふくみ、雄勁です。花への傾倒は感傷するには余りゆたかという風趣なのです。その味いも決してゆるんだ芸術品には見出せません。健全な大きい陶酔が花をめぐって流れ動いていて、それは自然そのままの堂々とした横溢です。
雨あがりの午後の光線は、この詩の中のとけた金色に似て樹の葉の上に散って居ります。私は自分のゆるやかながらつよめられている鼓動を感じます。
伸々と横になっていらっしゃるあなたの手脚に、こんな一篇の詩の物語はどんな諧調をつたえるでしょう、それは気持のよい掌のようであればいいと思うの。
八月二十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月二十九日
きょうは、はじめて午後の二階が八十六度足らずです。庭で、ホラホラ鬼《オニ》(蚊のかえりかけ)とボーフラ、グロッキーになった! と太郎と咲枝の声がしています。防火用の大きい大きい桶の水が青桐の下に出来
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