と思って居ります。今はのんきに考えて、本もうだって読めなければ、マア其で、余り我が身を攻めません。夜ぐっすり眠りそのぐっすりさは大分もとのようです。いろいろ考えようと思って枕に頭をつけると、いつか眠ってしまうと大笑いです(尤も、そんな考えの主題はやりくりについて、というようなもので、全くよく眠気を誘うのですが。)朝目をさましたときいつも必ず心にする一つの挨拶や空想は、詩についてのもので、それはいつも新鮮で真面目で、そして淳朴です。神々の朝というようなものよ。或はいつぞやの真白き朝という詩のような。そのような朝が、そちらにもあけることでしょう。呉々も呉々もお大事にね。

 八月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(伝光茂筆「浜松図屏風」の絵はがき)〕

 ゆうべ(六日夜)のむしかたはひどうございました。夏になって初めて、横向きにねている上の方だけ発汗してそれがつめたく何とも云えずいやな気持の夜でした。苦しい晩でしたから、そちらもさぞと思われます。きょうもえらかったことね、夜は幾分ましですが、湿度90[#「90」は縦中横]%ですからしのぎにくいのは無理もないことね。今年はこんなに湿度高いのに、開成山の方は干上って井戸の底が見えているそうです。

 八月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(伝光茂筆「浜松図屏風」の絵はがき)〕

 八月九日、電報を、わざわざどうもありがとうございました。様子はっきりせず段々心配になっている手紙御覧になり打って下すったとありがたく拝見しました。お目にかかったあとで、きっとこのハガキはつくのでしょう。森長さんに五日ごろ電話したのでした。あの人のこと故その日はあなたの熱が下って、他の病気の発熱でないと判明したというようなことはちっとも分らず、只、会ったというので益※[#二の字点、1−2−22]私の心配はかき立てられたのでした。でも本当によかったこと。どうぞどうぞお大切に。

 八月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 八月十一日 ひる一寸前、八十八度
 ゆうべの夜なかは涼しかったのに、きょうはやはり相当の暑さになりました。お工合はいかがでしょう。熱は下ったでしょうか。
 きのうはお目にかかれ大してへばってもいらっしゃらない御様子を見て安心いたしました。一時的のことでしょうね。何しろ、丈夫な人でもよほど健康[#「健康」に傍点]というレベルは下っていて、今年の夏はしのぎ難いそうです。
 幸、風はとおりそうですからどうぞゆっくり御大切に。しかし、あなたとして見れば、この位の変調は注意を要する、という程度で、もっともっとひどい思いしていらっしゃるのだから、十分の経験をおもちのわけです。きのう伺うの忘れたけれど、血をお出しになったのではなかったのでしょう?
 私の暮しに、具体的な情景が加ったと申すわけです。静かそうで、バタンバタンなくて、休めるでしょう?
 何となし、学生暮しの雰囲気でやっていらっしゃるのね。それを感じ、世帯じみていないのを快く存じました。きっと人によるのだろうと興味深く考えました。私もあんな風に、どこかあっさりとして、からりとした雰囲気で暮しているだろうかと思い、その点では余り点が低くもあるまいと自答いたしました。私は女ですから猶更生活のいろいろな変転を経験するごとに、つまらない意味で世帯じみていないこと――つまり些細な日常的癖に拘泥する習慣のないこと――をうれしく思って来たものです。こんなことも当然とは云いながら、やはり私たちの仕合わせの一つよ。そして私はこうもよく考えます、ずっと一緒に暮せていたら、私は自分のよい意味ではまめまめしさで、反対には俗っぽさできっともっと家庭じみ[#「家庭じみ」に傍点]ていたでしょうし、あなた迄も世帯っぽさでまきこんだかもしれない、と。
 あなたは「ジャン・クリストフ」をお読みになったでしょう? 覚えていらっしゃるかしら。あの中にクリストフに深い信愛をよせた伯爵夫人がいたことを。娘が一人いたひとです。その人がクリストフの芸術を高く評価して、部屋へ訪ねて行きます。そのときクリストフは留守なの。クリストフの部屋は、婦人向きとはおよそ反対です。客間とは全く逆です。その様子にその女のひとは快い息をするのですが、すぐ何となし少し片づけてやりたいという気が起るのよ。それを自制して心のこもった眼差しで飽かずぐるりを眺め壁をながめ、かえるのだけれども。女の心持って可笑しいのね。そういう点になると女心に東西なしということになります。
 昨夜寿江子は信州の方へ出かけました。去年行ったとき上田が気に入ったというので、もし家があったらそこへ暮そうかなどとも云って居ります。松原湖へ行くのですって。十日ほどで帰るでしょう。昨夜は珍しく門まで送ってやって一年と半ぶりで
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